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APS(アリゾナ・パブリック・サービス)の創始者は日本人
アリゾナの綿花
フェニックスのエアコン
テンピの名前の由来は?
メキシコだったツーソンがアメリカになった経緯
アリゾナで火山活動
レイク・プレザント、名前の語源は?
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

APS(アリゾナ・パブリック・サービス社)の創始者は日本人

日本人で初めてアリゾナに足を踏み入れ、しかもフェニックスに多大な貢献をして、アリゾナの日本人として最初にアメリカ市民権を取得したパイオニアがいた。
名前は、大貫八郎。埼玉県出身。時は19世紀の話だ。1890年(明治3年)にシアトルに上陸した彼は、その後しばらくして、フェニックスにやってきた。アメリカ人の間では、彼は八郎ではなく、ハチュロン(Hutchlon)と呼ばれた。
当時は、ゴールラッシュの最中の西部だ。彼はフェニックスに飲料水が不足していることに目を付けた。そこで、井戸を掘って水を確保し、それを鉱山で売った。売れ行きは好調で彼は利潤を上げる。そして白人女性と結婚し、郊外に640エーカーの土地を購入して農業を経営し始めたのだ。
そして、フェニックスの町は発展する。そこに目を付けた彼は、ガス・電灯の会社を設立したのだ。市街電車や鉱山開発の事業を積極的に展開したいった彼は、ついに地元の有力者となった。
1904年に彼は事業の利権を市に譲渡して、シアトルに戻り、東洋銀行を経営。その後、コロラド州デンバーで活躍し、老後はサンディエゴで暮らした。
夫婦の間に4人の子供をもうけ、娘の一人は有名なオペラ歌手(大貫春子)となる。息子はフィリピンに移住し、マニラで最も富裕な市民となるが、太平洋戦争で日本がフィリピンに侵略した時、日本軍に囚われ、牢に入る。
1935年頃、フェニックス市では、大貫の功績をたたえて銅像を造る話が出たが、当時の排日機運で実現しなかった。
大貫がフェニックスで作ったガス・電灯の会社は、現在アリゾナ大手の電力界社APS(Arizona Public Service)である。

アリゾナの綿花

温暖な場所で育つ綿花は、アリゾナの主要な農産物だ。綿花は昔からアメリカ先住民がアリゾナで生産していた。
ちなみに、アリゾナは5Cと言われ、5つのCで始まる単語がアリゾナを代表しているものだった。その5Cとは、銅(Copper)、綿(Cotton)、柑橘類(Citrus)、牧畜(Cattle)、気候(Climate)の5つだ。
20世紀に入るとこの綿花の需要が急激に増加する。アリゾナで綿花の生産を増やすには、広大な土地だけでなく、充分な水を確保しなければならない。この要求が、ソルト・リバー・プロジェクトとセントラル・アリゾナ・プロジェクトを生む大きな要因となった。では、なぜ急に綿花の需要増加が起こったのだろうか。
それは自動車の出現だった。自動車が大衆化するに従い、タイヤの生産に必要なコットン(綿)を大量に仕入れなければならない。198年にフォード社がモデルTという車を発表した。それ以来、自動車の大量生産がアメリカで始まった。
当時は、良質なコットンが中近東から輸入されてきていた。ところが事態はある日突然急変してしまう。1917年に第一次世界大戦が勃発する。すると、イギリス政府は、当時イギリス領だったエジプトとスーダンからのコットンの輸出を禁止してしまう。そして、全てのコットンをイギリス国内に出荷させ、飛行機や軍需用品に必要なコットンを確保しようとしたのだった。この輸出禁止例であわてたのは、アメリカだった。米軍も軍用機、輸送トラックなどにどうしてもコットンが必要だった。そこで、内需に頼らなければならず、勢い、アリゾナに白羽の矢が放たれた。
大手タイヤメーカーのグッドイヤー社は、14,000エーカーの未開拓地をフェニックスの南西部(現在のグッドイヤー市)に購入し、綿花の生産を急いだ。ファイヤストーン社やダンロップ社などの他のタイヤメーカもフェニックスに次々とやってきた。ブームがブームを生んだ。
もちろん土地代も高騰し始めた。1916年に1エーカーが60ドルだったのが、1919年には600ドルにもなった。フェニックス近郊の綿花農地は、1917年に19,000エーカーから翌年には、69, 000エーカーに急増した。
戦争によって発展するという皮肉な歴史がここにもある。

フェニックスのエアコン

アリゾナとりえあけフェニックスの人口が爆発的に増加し始めたのは、1950年代のことだ。その理由は?
それは、50年代にアメリカでエアコンの大量生産が始まったからだ。暖かい冬が売り物のフェニックス。当初はフェニックス市政府や企業誘致を促進する団体が避けたかった話は、暑い長い夏のことだった。ところが、このエアコンの普及によって、彼らも堂々と胸を張ってフェニックスを売り込み始めた。
では、それ以前、人々はどんな風に夏を乗り越えていたのだろうか。
まず、町から出ること。北の山々に避暑に行ったり、他州に一時的に移って夏が去るのを待った。しかし、町を離れることができない人々は、何とか工夫しなければならない。
そこで、夜は、庭や屋根の上で寝る。昼は、濡れたシーツをかぶって寝る。また、近くの用水路に行って水を頭からかぶる。ホースを木にくくりつけ、上向きにして水を出してその下で涼む。など、、、、。当時は悪銭苦闘の連続だったようだ。
1950年代末にフェニックスは「最もエアコンが完備された町」と呼ばれる程エアコンが必需品となった。ちなみにフェニックスで始めて市営プールができたのは、1887年だった。

テンピの名前の由来は?

1879年、当時の草創のパイオニアであったダレル・ドュッパという男がいた。彼はフェニックス一帯の開拓を手がけていたが、その年のある日現在のテンピあたりまで馬をとばした。彼の目に飛び込んで来たのは、切り立つ岩の丘、滔々と水をたたえたソルトリバー、そして周辺には農地が広がり始めていた。それは彼にとってとても新鮮で感動的だったようだ。そこで彼の頭をよぎったのが、ギリシャ神話に出てくるテムビ峡谷という美しい場所だった。テムビは、ギリシャ語でTembiと書き、英語ではTempeとなった。
こうして彼はこの地をテンピと呼ぶことにした。これが後に正式な町の名前となった。

メキシコだったツーソンがアメリカとなった経緯

ツーソンはアリゾナの中で最も歴史が古い町である。しかもツーソンはかつてメキシコ領内にあったので、今でもメキシコやスペインの影響が強く残っている。
さて、1846年に勃発した米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)でアメリカ軍は大勝し、その結果として、メキシコからカリフォルニア、ネバダ、ユタ州の全領域、そして、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半を管轄下におさめた。しかし、ツーソンやアリゾナ南部はまだメキシコ領土であった。アメリカは大陸横断鉄道の南部ルートを建設して、東部からカリフォルニアに結ぶ運輸経路を作りたかった。そのためにもアリゾナの南部の確保が重要であった。そこで、アメリカの外交官ジェームズ・ガズデンがメキシコ政府と交渉し、1853年にアメリカが、アリゾナのヒラ・リバー南部、ニューメキシコのリオ・グランデ西部一帯を買収することに同意した。ツーソンは、もちろんヒラ・リバー南部なので、この時にツーソンがアメリカ領となった。これをガズデン買収と呼ぶ。

アリゾナで火山活動?

アリゾナには、ごつごつとした岩山が多いがその多くが古代に起きた火山活動によるものであることがわかっている。しかし、人類の有史時代にここで火山活動があったのだろうか。もしあったとすれば、将来も再び活動を開始する可能性もあるのだろうか。
歴史上アリゾナ州内で一番最近起きた火山活動は、13世紀にさかのぼる。考古学者の研究では、1250年にフラッグスタッフの東部にあるサンセット・クレーターで大噴火が起こったことがわかっている。サンセット・クレーターの火山活動は、1064年から始まり、何と約200年もの長期にわたって続いた。当時この周辺に住んでいた古代人達は、度重なる地震と火山灰の被害で他の場所に移動したようだ。
アメリカ地理学会の科学者達は、この一帯での将来の火山活動の可能性はあるとしているが、その規模は小さいのではないかと予想している。

レイク・プレザント、名前の語源は?

1880年代、この一帯は、アグア・フリア・リバーが流れ、その周辺に牧場や鉱山発掘の事業が行われていた。時々この川が氾濫してしまい、治水を目的にダムを作る必要が出てきた。そこで植民者の一人、ウィリアム・プラットが小さなダムを建設した。ところが、翌年の氾濫でダムは破壊されてしまう。
その後、1925年になると、農場主のグループが本格的なダムを建設しようと立ち上がり、330万ドルの資金を作った。そして彼らはダムの設計者を雇った。その設計者の名前は、カール・プレザント。1928年にカール・プレザント・ダムとして完成し、そのダムでできた湖がレイク・プレザントとなった。

 

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