トーティヤ・フラットとアパッチ・トレイル(1)

ワイルド・ウェストを体験しようと、世界中から観光客が訪れるアリゾナ.その中でも一番ワイルドな西部をそのまま残したトーティヤ・フラット。人口6人を自負して、誠に小さく、しかし本物の西部を残している場所だ。

そして、その先には人工の湖が続く。山に沿って走る道、アパッチ・トレイルもまさに西部そのものだ。

今月はこの西部の荒野に足を踏み入れてみよう。

フィッシュ・クリーク
行き方

フェニックスを東に高速道路60号を走り、アパッチ・ジャンクションで州道88号を北東に上がる。サワロ・レークの湖をさらに進むと小さな町が見える。これがトーティヤ・フラットだ。この88号線がアパッチ・トレイルと呼ばれている道路だ。トレイルとは動物や人間が歩いてできた山中の小道のこと。

   
「トーティヤ・フラット」とは?

トーティヤとは元々食べ物の名前だ。コロンブスがアメリカ大陸に来るはるか前から、アメリカ先住民が主食としていたパンを指す。彼等はトウモロコシをアルカリ処理して、石の臼の上ですり潰して、生地を薄く延ばす。そして、それを焼いて薄く平たいパンにする。
スペイン人がこれを見た時に、形がスペインのオムレツ(トルティージャ)に似ていたので、彼等はこれをトルティージャと呼んだ。メキシコでllaをヤと発音するので、トルティーヤとなった。実際には英語で発音すると、トーティヤに近く聞こえる。今はメキシコ料理に欠かせないパンとなっている。
もちろん、フラットは英語で「平たい」の意。

アリゾナのトーティヤ・フラット

この地は長い間、アメリカ先住民が行き来する中継地となっていたようだ。そして、そこから山岳に登っていく道をヤバパイ・トレイルは呼ばれていいた。時はさかのぼって、16世紀。スペイン人のカベサ・デ・ヴァカがアメリカ大陸を探検していて、アメリカ・インディアンの捕まってしまった。その後、うまく逃亡を図って成功し、今のメキシコに到着する。そして、そこで、7つの黄金の町の話をした。北米には全てが黄金の町が7つもあるという。これを聞いたスペイン人達は、一斉にアメリカの黄金を探して、海を渡ってやってきたのだ。そして、その探検隊の一つがコロナドに率いられて、現在のフェニックス近辺にやってきた。彼等はスーパースティション・マウンテンも見たであろう。したがって、当然このトーティヤ・フラットあたりもスペイン人が往来していた。
1821年、メキシコがスペインから独立。すると、メキシコからスーパースティション・マウンテン周辺に次々と人がやってきた。ドン・ミガエル・ペラルタという大地主で採鉱者でもある男もその一人だった。彼は1847年と1848年にスーパースティション・マウンテンで巨大な金鉱を発見したと報告した。ところが、かれの率いる探検隊がアパッチ族の襲撃を受けて、全滅してしまう。しかし、ペラルタの報告は、非常に魅力的だった。こうして、人間が集まると、彼等をアパッチ族から守るために軍隊が配属されるようになる。人間がヤバパイ・トレイルを往来するのに、トーティヤ・フラットの場所は、誠に都合の良い休息の場となっていた。地面が平らで水が豊富だ。馬に食べさせる草もある。そして、キャンプするにも安全な場所だった。

   
20世紀の到来

フェニックス周辺の農業用水確保と電力供給のためにソルト・リバーにダムの建設が必要となった。マリコパ郡の調査によって、ルーズベルト・ダム(当時はトント・ダムと呼んだ)をソルト・リバー上流に建設することが決定すると、その建設機材などを運搬する道路を作らなければならない。そこでヤバパリ・トレイルに沿って道路建設が始まった。1903年のことだ。これには、400人ものピマ族とアパッチ族のアメリカ・インディアンがかり出された。白人の労働者を町から引っ張ってくるより、はるかに安くすむという計算だった。
建設は、メサからフィッシュ・クリークまでのグループと、ダム建設予定地からフィッシュ・クリークまでのグループの二手に別れて、同時に始まった。フィッシュ・クリークは、今でもアパッチ・トレイルの中で最も美しい峡谷であり、道も極めて細く曲がりくねっている。1904年に道路はトーティヤ・フラットまでつながり、トーティヤ・フラットが労働者の駐屯地となった。そして、道路建設は、フィッシュ・クリークへと向かう。フィッシュ・クリークでの道路建設は、困難を極めたようだ。急なこう配と頻繁に襲う雷雨で容易に進まなかったが、1905年には開通し、ダムの建設は1904年に始まっている。