トーティヤ・フラットとアパッチ・トレイル(2)

西部らしい西部を残すアパッチ・トレイル。ルーズベルト・ダムの建設と湖の誕生。100年も前に人間が作り上げた道は、今でも私たちを魅了して止まない自然美に包まれて、その役目を立派に果たしている。

トーティヤ・フラットの名前は

今でもはっきりわからないのがトーティヤ・フラットの名前の由来だ。しかし、2つほど説がある。
その一つ。この一帯のパイオニアであったジョン・クラインがある日、フェニックスに買い物に行った。買い物を終えて、馬車で帰ってくる途中、ある所まで来て、立ち往生してしまった。前夜からの雨で洪水となっており、これ以上前に進めない。そこで数日この場所でキャンプすることになった。ところが食料がなくなってきて、残っているのは小麦粉だけになってしまった。そこで、小麦粉でトーティヤを作って飢えをしのいだ。この地が平らな場所で、トーティヤを食べたので、トーティヤ・フラットという名称になった。
もう一つ。やはり、ジョン・クラインが登場。ジョン・クラインと彼の友人達がフェニックスに行った。そこで牛を売って、商売ができた。それを祝って一杯やろうと、馬車で帰りながら飲んだ。ところが、飲み過ぎたようで、ある場所に来た時に、フェニックスで買った食料をどこかに忘れてきたことに気付いたのだ。仕方なく、彼らが持っていた小麦粉を使ってトーティヤを焼き、それを食べて一夜をすごした。その場所がトーティヤ・フラットということ。
いずれにしても、このジョン・クラインが命名者のようだ

   
ルーズベルト・ダム

フェニックスの農業は初期の時代からソルト・リバーが運んで来る水に依存していた。しかし、このソルト・リバーは、フェニックス住民にとって頭痛の種でもあった。何せ、洪水が余りにも頻繁に起こる。しかも、安定した水の確保
が保証されない砂漠の真ん中に流れている。この川の水を常に確保し、しかも洪水を防ぐにはダムの建設が解決への道を開く唯一の方法だった。1902年にセオドア・ルーズベルト大統領が国家開墾法に署名し、アメリカ西部の川の各所にダムが建設されることになった。そして、その最初のダムがソルト・リバー上流に建設される運びとなった。幸いにも、近辺に良質な石灰岩の地層と粘土が見つかり、セメントの確保が容易にできることになった。ダムの建設地は、長い間アメリカ・インディアンが住み、また白人達も農業や牧場を営んでいた。今では、湖の底となってしまっているが、山と山に挟まれた狭い盆地がダムの建設地となった。
多くの難題を克服しながら、ついに1911年2月5日にダムは完成した。合計35万平方ヤードの石と一個が重量10トンもするブロックを使って、高さ280フィート、横幅723フィートの巨大なダムとなった。ブロックはアーチ状にカーブして設置されており、水面が上がって水圧が高くなればなるほど、ブロックとブロックの間が引き締まるようにできている。

 
ダムの修復
その後、フェニックスは更に発展をとげ、人口も急増した。洪水はそれでも何回も起きて、多大な被害を残していった。ダムは修復改善の必要があることが明らかとなってきた。1984年、内務長官がルーズベルト・ダムの修正工事計画を承認する。技師達の結論として、ルーズベルト・ダムは、最大可能な規模の洪水に耐えられる容量を持たないこと、そして、最大可能な規模の地震にも耐えられないことなどが計算ではじき出された。しかも、それはただ単に机上の計算ではなく、現実の問題として明白になった。 
1993年1月19日のことだ。長雨が続いていた。そして、ルーズベルト・ダム建設以来初めての大量の水がダムに蓄積されていた。湖の水面は上昇し続け、危険な状況になってきた。当然、ダムの水吐き口が開き、水がどんどん放出され始めた。放出作業は同年の3月初めまで続いた。テンピのソルト・リバーにかかる橋が大きな損傷を受けたのもこの時だった。
こうして、ダムの修正工事は1996年4月に完成した。総工費は47億2400万ドル。ダムの高さは77フィート分上がった。この結果、貯水容量が飛躍的に拡張され、大雨の際も水の放出量を制限できるようになった。また、フェニックスの人口増加に伴う水のニーズにも応えられるようになったのである。
   
ルーズベルト・レイク・ブリッジ(Roosevelt Lave Bridge)

ダムの修復工事に伴い、周辺の道路も整備された。それまでの狭い道と狭い橋では、ダムの修正工事に支障を起こすことが明らかであった。こうして完成したこの橋は、2車線のスチール・アーチ橋だ。橋の長さは1080フィートで、北米のスチール・アーチ橋としては最長のものとなる。この橋は、ステート・ハイウェイ188号線とアパッチ・トレイルの道を結ぶ接合点となっている。

   
ルーズベルト・ダムとトント・ナショナル・モニュメント

ルーズベルト・ダムに隣接して、古代先住民の遺跡が保存されている場所がある。これがトント・ナショナル・モニュメント (Tonto National Monument) だ。山の中腹にクリフ・ドウェリングと考古学者が呼ぶ洞穴がある。これは単なる
洞穴ではなく、古代先住民が住居として使ったいわばアパートのようなものだ。大きな洞穴に粘土と岩を使って壁を作り、部屋をいくつも作り上げる。内部には料理のため火を使った形跡も残っている。彼らは約850年程前にこの洞穴で生活をしていたサラド族の人たちだ。
20世紀初めには、ルーズベルト・ダムやアパッチ・トレイルの工事のため、この周辺には人間の往来が激しくなる。考古学者達は全米各所の貴重な古代遺跡の損失に危惧をいだき、その保存を政府に働きかけた。こうして1906年にアメリカ遺物法が議会で通り、遺跡の保存が法制化された。ここ、トント・ナショナル・モニュメントも1907年にルーズベルト大統領の署名で正式に設立されるようになった。
ルーズベルト・ダムが1911年に完成し、その翌年アリゾナが正式に州となる。そしてその頃、サザン・パシフィック鉄道がダムの近くにホテルを建設した。そして、このホテルがダム周辺のツアーを斡旋する事業を始める。すると、トント・ナショナル・モニュメントは大きな目玉商品となった。1929年、アメリカ森林局の支援を受けて、サザン・パシフィック鉄道は、この場所に道路と駐車場を建設した。そして、遺跡までのトレイルを完成させる。
こうして、古代と近代の接点がダム建設によって浮き彫りにされるようになったのだ。