フェニックスに80年の貫禄、ホテル・サン・カルロス

急変を遂げているフェニックスのダウンタウン。ライトレイルの線路建設、コンベンション・センターの拡張工事、アリゾナ州立大学のキャンパス建設など、日々に様相の変化がわかるほどだ。こうした中で、一挙に私達を80年前に戻してくれる歴史の風格を持つビルディングがある。それが、ホテル・サン・カルロスだ。セントラル・アベニューとアダムス・ストリートの角に立つこのホテルには、イタリア・ルネサンスの雰囲気がただよってくる。

   
ホテルの前身

現在ホテルが立っている場所は、もともと、フェニックスで始めての学校があったところだ。1874年、平屋で一室だけの建物が完成した。そこには井戸が掘られたが、その井戸は、現在もホテルの地下にあって、役目を果たしている。5年後の1879年には、2階建てのレンガ造りとなり、教室は4部屋でベル・タワーも設置された。もちろん、当時のフェニックスは、小さな町で、この学校がフェニックスにあった4番目のレンガ造りという記録が残っている。そして、この学校から北側にはセントラル・アベニューにそって何も建物がなかったというから、荒涼たる砂漠が広がっていたに違いない。さて、この学校は、1893年には、16の教室にまで拡張された。
20世紀に入り、学校もその使命を終えた。1916年に廃校となり、3年後の1919年にバビット家がこの敷地を買収した。ちなみに、1978年から1987年の間、アリゾナ州知事、そしてクリントン政権下では米国内務長官を勤めたブルース・バビットは、このバビット家の親戚。
バビット家は、この地にホテルを建設しようとした。しかしこの計画が実現するまでに10年を要することになる。時は、第一次世界大戦で世界が揺れていた。
1927年、サン・カルロス・ホテルの建設は、ついに実現に向かって歩み始めた。地元の名士ドワイト・ハードが出資し、工事が始まった。設計を担当したのは、当時全米でその名をよく知られたワイトクロス・リッチーで、イタリア・ルネサンス・スタイルのホテルが建設されることとなった。
1928年、3月20日。ホテルのグランド・オープンの式典が盛大に開催された。当時のアメリカ南西部で最もモダンなホテルとして世間が注目した。まず、初のエアコン設備だ。この時代にエアコン完備のホテルは南西部で皆無だった。次に高層ビルでエレベーターを備えた。これは、州で初のエレベーターとなる。ただし、エレベーターのドアの開閉は、手動でなされていた。手動ドアのエレベーターは1970年代まで使用されていた。
さて、ホテルの総工費は、85万ドル。当時のフォードの自動車、モデルAが$820だった時代の金額だ。

   
ハリウッド・スターとホテル・サン・カルロス

このホテルは、ハリウッドなどから映画スターたちがよく利用した。ホテルの近くには、オーフェアム劇場があり、そこで公演などが行われると、宿泊の地は決まってこのサン・カルロスだった。
こうしたスターの一人が、メイ・ウェストだ。彼女は、1929年にオーフェアム劇場で行われた「私は天使じゃない」に出演するために、サン・カルロスに宿泊。記録によると、その日の夜にフロントに彼女が残した要求には、「明日は午後3時まで起こさないで。その時にシャンペンとグラスを2つ持って来て」とあった。
また、「風と共に去りぬ」の主演、クラーク・ゲイブルは、彼の愛妻でやはりハリウッド・スターのキャロル・ロンバートと一緒にサン・カルロスに何回と宿を泊した。映画「バス・ストップ」の撮影でアリゾナに来たマリリン・モンローもこのホテルに泊った。彼女は、ホテル3階のプールに近い部屋を求めた。皆の視線をできるだけ避けてプールデッキに出て肌を焼きたかったらしい。

 
フレンチ・カフェ

ホテル初のレストランがフレンチ・カフェだ。その人気は揺るぎないものだった。このレストランが誇るフレンチ・オニオン・スープは、町中でベストだ、と言われる程、多くの客がスープを求めてやって来た。ロビー横のパーム・ルームには、カクテルバーが大人を引きつけ、エアコンが効いたパーム・ルームで一杯やりながら、一時を過ごした。第二次世界大戦の時には、兵隊がホテルに宿泊し、バーは、まるで戦略基地のような役目を果たしていた。

   
ホテルの宣伝に使われた幽霊の話

1928年に若い女性がホテル・サン・カルロスの7階から飛び降り自殺をした。ホテルのベルボーイとの恋愛が失敗に終っての結末だったようだ。彼女の名前は、リオン・ジェンソン。22歳だった。人通りの多いダウンタウンの道に横たわった彼女の死体は、美しい夜のガウンに包まれていた。
さて、彼女の自殺の後、ホテルの中で変なものを見たという客からの報告が絶えなかった。変なものとは、何となくはっきりしない形の女性の指が冷たい空気とともに彷徨している、というのだ。
その後、宿泊客やホテルの従業員から違うものを目撃したという報告が入り始める。それは、3人の少年がホテルを駆け巡っているというのだ。子供の笑い声と走る音が聞こえるという報告が数年の間フロントに来ている。これは、たぶんホテルが建てられる前の学校の生徒達の声ではないか、などと噂が流れ始める。
まあ、その真偽はともかく、この幽霊が出るかもしれないホテルというのは、良い意味で宣伝となり、客寄せに一役を買ったようだ。
暑い夏に身体を涼しくする良い機会が、このホテルにはあるかもしれない。
現在、ホテルはアメリカ歴史保存物のひとつとなり、旅行者や幽霊狩りの者達を魅了してきている。

 
80才のホテルで演奏する80才のピアニスト

80才とは思えない若々しい生命力。声の衰えなど全くなく、軽やかに10本の指がピアノを奏でる。ホテル・ロビー横のレストランの雰囲気は、すでに彼女の支配下にある。ジョークを飛ばしながら、客の心をぐいぐいと引き寄せていく。
 このホテルが80周年を迎えた時、ホテルから依頼があり、ピアノを演奏するようになった。彼女の名は、シャーリー・ピーターソン。生れは1928年。彼女が生まれたワイオミング州のシャイアンでは、クラシック音楽のピアノ演奏やカントリー音楽が盛んに聞かれる所だった。彼女は、高校の時にダンス・バンドに入団し、ダンスやピアノのリサイタルに熱を上げた。高校卒業後、彼女は東海岸を目指した。そして、入学したのが、ジョージ・ワシントン大学。専攻は、なんと政治学。大学のダンス・バンドで唯一の女子学生として活躍した。そこで、彼女はジャズに魅せられる。大学を3年に中退し、ジャズのテナー・サクソフォン奏者と結婚し、ボストンに移った。ボストンでジャズ・ピアノを学んだ。
夫とともにナイトクラブで演奏していた彼女は、そこでありとあらゆるタイプと人間群と接することになる。ミュージシャンはもちろん、ストリッパー、手品師、ダンサー、コメディアンなどと付き合いながら、本格的なショービジネスの知識を現場で体得していった。
 予期せぬ夫の死を経験した後も、彼女は引き続きピアノ演奏と歌に徹し、1960年代と1970年代にはニューヨーク各地のカクテル・ラウンジやバーなどで人気者となっていった。その後、引退し、メキシコで数年を暮らす。
 メキシコにいる間、若いメキシコ人のミュージシャン達に出会った。彼らはジャズに熱中していた。そこで、彼女が初のCDを出した。
これがきっかけで、彼女の演奏スタイルは、「自由で楽」なスウィング・ピアノを演奏し、歌で皆を魅了するようになった。現在メサに在住。ホテル・サン・カルロスで毎週土曜日の夜、7時から9時まで軽やかな演奏を聞かせてくれている。「どれくらいこれからも演奏するのですか」と聞くと「フォーエバー(永遠よ)」と笑って答えてくれた。