今も残る西部開拓の町、ウィッケンバーグ

ウィッケンバーグは、フェニックスから北西に約50マイル余離れた砂漠の丘にある町だ。町の誕生は、1863年。アメリカは、まさにゴールドラッシュの最中にあった。人々は金を求めて、西へ西へと急いでいた。それから一世紀半後の今日。今でも19世紀の雰囲気が残るこの町、ウィッケンバーグ。今月は、この西部開拓の町を散策してみよう。

   
ヘンリー・ウィッケンバーグ (Henry Wickenburg)

町の名前は、その産みの親、ヘンリー・ウィッケンバーグから来ている。オーストリアで生まれた彼は、20代でニューヨークに渡った。1847年のことだ。丁度その1年後に、カリフォルニアで金鉱が見つかり、一攫千金を狙う者が次々と西部を目指した。ウィッケンバーグもその一人で、1852年にサンフランシスコに移った。
1862年には、現在のユマの周辺のコロラド川沿いに採掘者や探鉱者が集まってきた。ウィッケンバーグも彼らの一員に加わって、彼らの目指す中央アリゾナに向かった。そして、現在のウィッケンバーグの町に近づくと、その周辺の山々を見渡し、金鉱の存在を感じた。そして、土地を掘り始めると、予想通り、金が発掘されてきたのだ。彼は、この金鉱をバルチュア鉱山と命名した。バルチュアとは、ハゲワシのことであり、更には弱い者を食い物にする強欲な人間の意味なので、随分変わった名前をつけたものだ。しかし、意外とその名の通りの歴史を刻んだのかも知れない。この金鉱からは、何と、3000万ドルを超える価値の金が採掘された。
この金鉱の周辺には、ハサヤンパ川が流れており、水と肥えた土地が豊富にあった。そこで、牧場主や農場主達もやってきた。こうして1863年にウィケンバーグと若手農場主達の手によって、町が誕生したのだ。その名は、もちろん、ウィッケンバーグ。

 
   
先住民の悲劇

スペイン人、そしてアングロの人たちが移住して来たアメリカには、常にその地にすでに生活をしていた先住民との軋轢の歴史が絶えなかった。ウィッケンバーグもその例外ではない。この周辺は、ハサヤンパ川の水を使って農業や狩猟を営むヤバパイ族が生活をしていた。白人の牧場主や農場主は、ヤバパイ族が水を使い、川で狩猟することに対して抗議を起こした。そして、ついにこの先住民を追放することにしたのだ。白人入植者達は、ヤバパイ族の村を襲撃し先住民を蹴散らしていった。ヤバパイ族も負けなかった。反撃を起こして対抗した。こうして、1860年代に約1000人もの先住民が命を失っていった。これをインディアン戦争と呼ぶ。この戦争に対して、ついに米連邦陸軍が介入した。そして、ヤバパイ族全員を特定の居留区に移住させることにしたのだ。
1871年にウィッケンバーグの北にヤバパイ族の居留区ができた。しかし、彼らの抵抗は続いた。幌馬車襲撃などが各所で起きていた。同年11月5日、ウィッケンバーグから6マイル離れた場所で、カリフォルニアに向かう幌馬車が襲撃された。襲撃に加わったのは、居留区に住む15名のヤバパイ族であった。幌馬車の乗客と御者合計6名が殺されたのだ。男性一人と女性一人の乗客が傷を追いながらも逃げることができた。これをウィッケンバーグ大虐殺と呼ぶ。
翌年、ジョージ・クック陸軍将軍は、居留区を訪れ、犯人逮捕を試みたが、結果的には、多くのヤバパイ族が殺されることになる。クック将軍は、ヤバパイに対し、「オール・アウト・キャンペン」(一人残らず追放)の作戦を展開する。ついに、1872年12月、スーパースティション山での戦いで、ヤバパイ族は完璧に屈し、彼らの抵抗戦はその時以来消滅した。ヤバパイ族は今でもその日の戦いを最大の悲劇の日としている。
その後、ヤバパイ族は全員、リオ・バーデ居留区に強制的に移動をさせられた。リオ・バーデはバーデ川が流れる森林地帯で、連邦政府は、「この川が流れる限り、この地に定住する」ことを約束した。ところが、1875年になると、政府はリオ・バーデ居留区の閉鎖を命じ、ヤバパイ族はアパッチ族が住むサン・カルロス居留区に強制移動をさせた。この突然の決定は、ヤバパイ族がリオ・バーデで農業を成功させていることに恐れをなした政府の決定と言える。サン・カルロス居留区での生活は厳しいものだったが、ヤバパイ族は再び農業に成功し、自給自足できるようになる。ところが、悲劇は続く。1890年代にサン・カルロス居留区の中のヤバパイが住む土地にダムを建設するという話が政府から知らされる。彼らは、リオ・バーデに戻りたいと願望し、次々とサン・カルロスを離れ始める。1901年には、ほとんどヤバパイがサン・カルロスから姿を消した。同時に連邦政府は、ヤバパイとアパッチは違う種族であることにようやく理解を示し、ヤバパイのためにフォート・マクドウェル居留区を1903年に設立した。
ともあれ、白人の都合で次々と場所を追われてきた彼らは、今、フォート・マクドウェル居留区で独自の政策を打ち立て、教育の促進、経済の活性化、種族の人権保護などに力を入れている。