今も残る西部開拓の町、ウィッケンバーグ(2)

先月に続いて、今月も西部の町、ウィッケンバーグを歩いてみよう。汽車の汽笛とカウボーイの靴音がいまだに聞こえてきそうなダウンタウン。冬場に入って、観光客の往来がますます増えていくであろう。

   
金鉱発見後の町の発展とヘンリー・ウィッケンバーグ

ウィッケンバーグは、バルチュア鉱山を発見後、その鉱山を売却し、現在のウィッケンバーグの町の近くに牧場を始めた。町には人口が増え、発展し始める。1879年には町で最初の学校ができた。1893年には、サンタフェ鉄道が完成し、1895年にウィッケンバーグに駅が誕生した。こうして、アリゾナ屈指の町に数えられるようになると、当時のアリゾナ準州の州都の候補地にまで選ばれる。結果は、準州議会の投票の結果、州都はプレスコットが勝ち取った。
こうした明るい町の発展とは裏腹に、ヘンリー・ウィッケンバーグの人生は、下降線を下り始めた。まず、彼の牧場経営が失敗する。彼は失意のどん底に落ちた。身体も疲れ切っていた。1905年、彼は銃で自殺してしまう。

   
ウィッケンバーグと鉄道

 

この町にとって鉄道の完成は大きな意義がある。金鉱の発見で金塊の安全にして確実な輸送は不可欠となっていた。また、カリフォルニアとアリゾナなどの西部を管轄する陸軍も、速度のある輸送手段を必要としていた。
1877年にサザン・パシフィック鉄道がカリフォルニアからユマを通ってアリゾナに入ってきた。しかし、バルチュア鉱山から最も近い駅はマリコパであり、そこまで70マイルを馬車で輸送しなければならなかった。
10年後の18887年、シカゴの実業家ダイアモンド・ジョー・レイノルズとそのパートナーのフランク・マーフィーがウィッケンバーグの北にある金鉱採掘をしていた。この場所は後にコングレス・ジャンクションと呼ばれるようになる。フランク・マーフィーの弟、ネイサン・オークス・マーフィーはアリゾナ準州の知事となり、アリゾナの鉄道建設への法律手続きに奔走していた。1881年までにはセントラル・アリゾナ鉄道が、アシュフォークからプレスコットまで開通していた。そこからコングレス・ジャンクションそしてウィッケンバーグを通ってフェニックスまでの線路が1895年についに完成したのだ。
ウィッケンバーグの木造の駅は、町のあらゆる中心地となる。駅の内部は、乗客の待ち合い室、電報局、駅馬車の事務所があり、人の往来がでにぎわった。
1905年には、駅の近くにバーネット・ホテルができ、汽車の乗客が一夜を送る場所となった。現在はハサヤンパ・ビルディングとなっている。
1969年にウィケンバーグ駅は一般乗客の運行サービスを終了し、貨物サービスだけが残った。1982年に貨物サービスの運行にも終止符が打たれる。そこで、この駅そのものはウィッケンバーグの町が所有管理することとなった。そして、ウィッケンバーグ商工会議所の事務所として使われ、現在に至っている。

 

ウィッケンバーグ商工会議所の事務局長、ジュリー・マシアス・ブルックさん。「マシアス」は彼女の母親の氏名で、もともとスペインから19世紀に移住してきた家族の血を引く。彼女の右横は、昔からウィッケンバーグ駅で使っていた金ルックサン。