ナバホのコードトーカーは今(2)

 

第二次世界大戦で強力な効果を示したナバホの言葉。長い抑圧の歴史をくぐり抜いてきた先住民がその言葉を話すことさえ禁止されてきた時代があった。皮肉なことに戦争が先住民の言葉を必要とした。その戦争が終って66年。ナバホの人たちは、自分達の言語が国を守ったことに最大の誇りを感じている。一方、その言葉を話せない若い世代が増え、伝統文化と言語の継承が大きな問題となっている。このような時代の変遷を見ながら、ただひたすらにナバホの人たちの写真を撮ってきた日本人カメラマンがいる。
河野謙児さん。河野さんとナバホの暗号部隊との出会いは、河野さんの人生を変えただけでなく、暗号部隊の存在を世界に知らしめる役目を果たした。
今月は、先月号に続き、ナバホのコードトーカーに関わった河野さんの人生を追ってみよう。

 

福岡で生まれた九州男児。高校を卒業後、広告代理店に就職が決まり、上京した。子供の頃から絵が好きだった河野さんは、グラフィック・デザインの仕事に携わった。社内のカメラマン達の影響もあってか、カメラを購入し、写真を撮り始めた。いつも被写体を探し、町を歩いた。人との出会いが楽しかった。そんな彼は、いつか自分は写真家になりたい、と思うようになっていった。
そして、彼は、思い切ってアメリカで写真を撮ろうと決めた。大胆な決断だったが、その頃は、まさかそのままアメリカに、その上、ナバホ・ネーションに居着くとは、夢にも思っていなかった。
1973年、ついに西海岸のロサンゼルスに着いた。まず英語を学ばなければと、アダルトスクールに通い始めた。

 

 

そんな折、骨董品店の知人から、ナバホの話を聞いたのだ。当時の河野さんにとって、アメリカ・インディアンは、あのジョン・ウェインの映画に出て来る西部劇のインディアンでしかなかった。アパッチ、コマンチ、スーなどの名前は聞き覚えがある。しかし、ナバホとは一体どんな部族なんだろうか。知人の説明で初めて知ったのは、ナバホがアメリカで最大の部族であり、アリゾナからニューメキシコ州にわたって広大な保留区があるということだった。
1974年、河野さんは、何か追い風に押される様にナバホの保留区を目指して、グレイハウンドのバスに独り乗り込んだのだ。道中、彼が肌身離さず持ち歩いたのは、日本から持って来た愛用のカメラだった。

 

ナバホ保留区に着いた河野さんは、とりあえず、住む場所を見つけなければならなかった。幸いにもホームステイをさせてくれる家が見つかり、そこに転がり込んだ。まだアメリカに来たばかりで英語もおぼつかない状態だったのに、今度はナバホ語の世界に来てしまった。
しばらくして、ガナードという町のガソリンスタンドで仕事ができるようになった。ここで、お客さん達との出会いが始まった。そして、ナバホの言葉を少しづつ覚えた。
「ヤァッテ(こんにちは)」、「アッヘヘ(有り難う)」、「チィディペィトォ(ガソリン)」、「オウ(はい)」など、同じガソリンスタンドで働くナバホの人から口真似で学んでいったのだ。
そして、時間を見つけては、写真を撮った。赤土の岩山、そこで生活をするナバホの人たち、悲喜こもごもの生活をカメラに収めては、現像していった。

 
 

ガナードで仕事をしている間、ガソリンスタンドの近くの物置小屋の隣にコンクリートで周囲を固めた地下室があった。実は、ここが河野さんの住まいとなっていた。ここの生活は二度と忘れることができない。まず、電気、水道がない。トイレもない。冬はコンクリートの壁からしんしんと冷気が体に入り込んで来る。毛布を10枚もかぶって、ようやく寝付くことができた。そんな場所でも、彼は開いたドアから見える天空に宝石のようにかがやく星々を眺め、感動の夜を過ごしたという。

 

日本にいたら、絶対しなかっただろう。ところが、ここでは頻繁にするようになったもの。それがヒッチハイクだった。まず、車を日本でも運転したことがない。もちろんアメリカでも免許もない。しかも、とてつもなく広大な大地に立っている。一地点から次の場所まで動くには、ずっと歩き通すか、ヒッチハイクをするか、どちらかしか方法はなかった。カメラバッグを抱えて、ひたすら歩く。そして、自動車が近づくと手を上げる。その車が止まってくれなければ、また歩く。そして、次の車が近づくまでただただ歩き続けるのだ。日本でマラソンをして鍛えた足だった。こうして、ヒッチハイクは恰好の移動手段となった。しかも、止まってくれる車が結構ある。
河野さんを拾ったナバホの運転手達は、いつも、河野さんに「お前はどこから来た」「何をしている」など、興味深げに質問を浴びせてくる。河野さんも「ヤァッテ(こんにちは)」から始まって、会話が進んだ。

 

1975年の夏のことだった。河野さんは、ウィンドーロックの道を歩いていた。ガナードまで戻ろうと、ヒッチハイクをしてしていた時だった。一台の車が止まったのだ。河野さんは、その著「ヤァッテ ナバホ」でこう記述している。
「1台の車が止まり私を乗せてくれた。運転手は、ナバホの男性で60代後半か、体がどっしりと大きく髮をナバホ独特のスタイルに結っている。日本のチョンマゲに似ているがナバホのは結った場所が後頭部になる。となりに奥さんだろうか、白人女性が座っていた。彼は、私が日本人だと知ると『私は、日本食が大好きだ。とくにすし、刺し身、天ぷら』と言いはじめたが、私は内心このナバホが日本食を好きだなんて私をちゃかしているんだろうと考えていた。私のカメラバッグを指さし、『それは何だ』と聞くので、『ナバホの写真を撮りたくてここに来たんです。カメラが入っている』と答えると、彼は『これからスコアーダンス(ナバホが夏の間に行う儀式でメディスンマンが患者の治療を願い行う)に行くが、いっしょに行かないか。少しは写真が撮れるだろうし、そのあとはガナードまで送っていってもいいぞ』と言ってくれた。これが、カール・ゴーマン夫妻とのはじめての出会いだった。ミスター・ゴーマンが私を彼の車に乗せてくれたことは私にとって大変ラッキーだった。彼と出会ったことで私は『ナバホ暗号部隊』の存在を知り、私は暗号部隊のポートレート写真集『WATTIORS』を1990年に出版できたのだから。」

 

その後、河野さんは、ナバホ・ネーションの正式なカメラマンとして部族政府議長の政治活動を写真でとらえたり、ナバホ・タイムズという新聞社でカメラマンとして採用されたり、ナバホの社会にすっかり根をおろし活躍していく。その上、ガナードで知り合ったナバホの女性、ルースさんと結婚し、一人娘サクラさんの父親としてナバホの生活が続いてきた。運転免許も取得し、行動範囲が広がり始めた。
ナバホ暗号部隊の一人一人を探し出し、訪問し、写真の意図を理解してもらい、カメラのシャッターを押した。電話などない家がほとんどである。予約を取って会いに行くことはできない。ようやく目的の家を見つけても、当人が不在だったなんてことは、しょっちゅうだった。河野さんの人なつこい人柄から、訪問先で取材を断わられることはほとんどなかった。こうして少しづつ人間関係が広がった。第二次世界大戦の終戦までに420人程いたナバホのコードトーカー達。その内約100人程に会うことができたのだ。

 

 

1989年にアリゾナ州最大の新聞社、アリゾナ・リパブリック紙から河野さんに電話があった。河野さんの一大プロジェクトを聞きつけた新聞社は、河野さんを取材したいと言ってきたのだ。インタビューを受けた数日後に、新聞の一面に写真つきで河野さんの記事が掲載された。すると、その日の午後にフラッグスタッフにある出版社から河野さんに電話があり、暗号部隊の本を出版させて欲しいと依頼があったのだ。こうして、写真と原稿を締め切りに間に合わせて出版社に送った。しばらくして、翌年の10月に出版されたばかりの写真集が出版社から河野さんの家に届けられた。それは、河野さんの長年にわたるナバホ暗号部隊の姿をカメラで追った集大成であった。今までの苦労が一挙に報われた思いだったに違いない。

 

 
バホを撮り続ける人生

近年、ナバホのコードトーカー達は老齢で次々と亡くなり、生存者の数は極めて少なくなっている。今年のナバホ・トーカーズ・デーには、それでも22名の老兵達がウィンドーロックに集ってきた。あと何年こうしたパレードを続けられるかわからない。これは河野さんにとっても悲しい現実である。忘れ慣れない人が、自分のナバホの父親のように慕ってきたゴーマンさんだ。彼との出会いで始まった暗号部隊のプロジェクト。河野さんがアメリカでグリーンカードを取得する時に、ゴーマンさんは喜んでスポンサーになってくれた。その彼も1997年にこの世を去った。
しかし、河野さんは、これからも一生ナバホの人々の写真を撮り続けていこうと決意している。妻のルースさんは、「私はケンジを日本人だとか、ナバホ人ではないとか思っていません。一人の素晴らしい人間として見ています。」と語った。一人の人間として、生涯何を行い、何を未来に残すか。今後もナバホの大地でカメラを携えて、多くの人々とかかわり合って生きていくことだろう。ナバホは自分たちのことを「ディネ」と呼ぶ。「ディネ」とは、「人々」という意味である。

 
 

ナバホの赤ちゃんには、日本人の赤ちゃんと同様に蒙古斑がある。12,000年も前の氷河期に、氷で地続きだったベーリング海峡を渡ってアジアから渡ってきた人たち。ナバホの人たちと日本人とは、古代からの不思議なる血縁関係があるかもしれない。
時代は下って、第二次世界大戦でのナバホ暗号部隊は対日戦で活躍した。
もう一つの因縁。
ナバホの保留区からウラニウムの鉱脈が発見された。そして、このウラニウムが何と日本の広島と長崎に落とされた原爆の原料となっていたのだ。
ところで、ウラニウムの発掘は、保留区に大きな問題を残している。冷戦時代に、ウラニウムの採掘には多くのナバホの労働力が使われた。その危険性を知らされずに仕事をしたナバホの人たちが廃棄物による放射線被爆で病気に倒れ亡くなっている。これは、後に訴訟問題へと発展してきたが、企業側の放射線量のデータが出ないケースが多く、被爆の立証が困難になっている。連邦政府は1990年に彼らに一律10万ドルの補償金を支払う制度はできたが、手続きに必要な出生証明所や結婚証明所など書類がなく、申請ができないままになっている人が多い。一方、ナバホ・ネーションの部族評議会は、2005年に保留区内でのウラニウム採掘を一切禁止した。現在、保留区内に放置されている発掘跡地での廃棄物処理が大きな課題となっている。

   
 

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