ナバホのコードトーカーは今(1)

 

日本軍によってハワイのパールハーバーを攻撃された1941年12月7日。その日からアメリカは、太平洋戦争に突入する。この熾烈なる戦争で誠にユニークな役割を果たした人たちがいた。それは、コードトーカーと呼ばれるナバホ・インディアンだった。コードとは、暗号を意味する。つまり、コードトーカ(Code Talker)とは、その暗号を駆使して戦場での通信を担う人たちのことだ。彼らの存在は、戦後長い間、軍事機密として公に知られることがなかった。
今月9月号と来月10月号では、このナバホ・コードトーカーとそのナバホの人たちの写真を撮り続けてきた日本人カメラマン、河野謙児さんの人生を追ってみよう。

   

ここに、一冊の写真集がある。写真集の表紙には、英語で「WARRIORS」と大きな赤い太文字が浮き出るように綴られている。その下には白い太文字で「NAVAJO CODE TALKERS」とある。「勇士達、ナバホ暗号部隊」というタイトルだ。この写真集は、1990年の出版だから太平洋戦争が終結してから45年後となる。
この写真集は、写真家河野謙児さんの集大成として発刊された。
さて、この本の序文にはカール・ゴーマン(Carl Gorman)というナバホの男性が寄稿している。このゴーマンさんと河野さんとのある小さな出会いが、実は運命的な出来事であったのだ。彼は、この序文でこう述べている。

「約15年前のことだった。私はアリゾナのウィンドーロックで道を歩いている一人の男を見た。大きなカメラバッグを肩から背負っていた。私は車を止め、そこから2マイルほど先のセント・マイケルズという場所まで連れていってやると彼に言った。彼の名前は、ケンジ・カワノと言い、日本から来たという。そして、今アリゾナのガナードという町に住んでいると知った。ガナードは、今車を止めている地点から30マイルも西にある所だ。私と妻がニューメキシコのクリスタルで行われるスコア・ダンス(ナバホ・エネミーウェイ)という祭儀に出てから、ガナードに連れていってやるという提案に、彼は同意し、私の車に乗り込んだ。
その後、何度も彼が道を歩いている姿を見る度に、私は彼を拾い上げた。彼は、いつもあちこちに移動していて、彼の感動の目が、ナバホの大地と人々に向いていた。」

ゴーマンさんと河野さんの友情はこうして深まって行き、家族のように付き合うようになる。河野さんがナバホのコードトーカーのことを初めて知ったのは、ゴーマンさんとの出会いがあったからだった。ゴーマンさんは、実は、太平洋戦争中に米軍海兵隊の暗号部隊の一員だったのだ。

「コード・トーカーの日」に集まった暗号部隊の勇士達

 

戦争中の暗号は敵から解読されないことが最重要となる。ところが、どんな複雑な暗号にも、それを解読してしまう人間が現れてきたのが歴史の常であった。
パールハーバー攻撃から数ヶ月の間、米軍は自分たちの暗号が日本軍によって解読されていることに苛立っていた。英語をもとにして作り上げた米軍の暗号には限界があった。こちらの戦略が敵に知られてしまう。これは、深刻な問題だった。
そんな状況の中、フィリップ・ジョンストンと名乗るエンジニアが、ある案を持って海兵隊の事務所にやってきた。彼が持って来た案というのは、ネイティブ・アメリカンのナバホ言語を通信暗号として使うということだった。
ジョンストンは、宣教師の父親がナバホの保留区に来たため、そこで幼少期を過ごした。ナバホの子供達と遊ぶなかで彼らの言葉を学んだ。ナバホ語と英語を自由にあやつる彼は、その後北アリゾナ師範学校(現在の北アリゾナ州立大学)で学び、卒業後陸軍に入った。第一次世界大戦が始まり、フランスで従軍した彼は、その時、米軍がコマンチ族の言葉を暗号として使っていることを知った。戦争が終わると、彼は南カリフォルニア大学でエンジニアの修士号を取得し、ロサンゼルス市水道局の仕事に就いた。
その彼が持ち込んだ案だった。当時、ナバホ保留区の外には、ナバホ言語を理解するアメリカ人は、30人ほどしかいなかったという。ナバホ語は、極めて複雑な言語であり、その習得は誠に難しいとされている。この言語を理解していたジョンストンが提案したのは、ナバホ語を基礎にして米軍の暗号を作り上げ、敵に決して解読されない通信を可能とすることだった。
海兵隊の事務所で彼の案を聞いていたジェームス・ジョーンズ中佐は、この話に興味を持った。そして、ワシントンDCにいたクレイトン・ヴォゲル少将の許可で、ジョンストンは、4名のナバホ人を使って実演を見せることとなった。そしてその実演を見たヴォゲル少将は、そのスピードと正確さに感心し、「ナバホ人を訓練せよ」と命令したのだ。

 

1942年4月、ナバホの兵士を募るため、フランク・シンという中尉がその任務に当たることになった。シン中尉の依頼で、ナバホ保留区のラジオから勇ましいアナウンサーの声が響いた。米海兵隊がボランティアを募っていると宣伝し始めたのだ。すると、思いもかけない程の数のナバホの男性が陸続と集まって来たではないか。ヴォゲル少将の命令は、とりあえず30名のナバホを選抜することだった。若く健康な男性で英語とナバホ語の両言語を話すことが選抜基準となった。シン中尉は、集まって来たナバホ男性の一人一人と面接し、選抜していった。そして、結局29名が選ばれ、5月4日の朝、一行は、バスでニューメキシコのフォートウィンゲートに移動。昼食後、全員が一昼夜かけてカリフォルニアのサンディエゴにある海兵隊新兵本部まで運ばれて行った。

 

サンディエゴに着いた29名のナバホ男性達は、それから7週間の基本新兵訓練に入る。1942年6月27日からは、通信基礎訓練に入り、8週間を費やしてナバホ語を基礎とした暗号作りが始まった。後に3名のナバホ兵士が追加され、合計で32名が暗号プロジェクトに関わり、同年8月に暗号の完成を見る。そして、8月25日に新たにリクルートされた200名のナバホに、完成したばかりの暗号を教え訓練することが許可された。
保留区の生活から一挙に軍隊の訓練に入った彼らは、肉体的にも精神的にも極めて辛い体験をしなければならなかった。しかし、驚くべき事実は、一人として脱落者が出なかったということだ。
彼らが作り上げた暗号は、ただ単に日常のナバホ語を使うのではなく、英語のアルファベットの一つ一つをナバホ語の言葉に入れ替えて表現していくのだった。従ってコードトーカーでないナバホの人たちは、これを聞いても皆目見当がつかないということになる。しかも、途中で暗号の向上が試みられ、変更されることがあったが、ナバホのコードトーカー達は、速やかにその変更を暗記し、変更による軍事作戦の支障は皆無であったという。暗号の例をいくつか挙げてみよう。例えば、戦車は「亀」。戦闘機は「ハチドリ」。潜水艦は「鉄の魚」、軍艦は「くじら」など。
これほど念入りに作られた暗号は、戦場で素晴らしい効果を示した。日本軍が暗号解読を試みたが、どれも成功しないで終戦となる。
このようにコードトーカーとして戦場に赴いたナバホの兵士は、終戦までには合計で約420人までになっていた。

 

戦場で果敢に活躍した暗号部隊。その暗号が最初に前線で使われたのは、1942年9月18日。ガダルカナル島に海兵隊第7連隊が到着した時だった。到着時点で、暗号部隊は、無線ラジオなど通信機器を設置し、次の日からメッセージを暗号に変えて発信し始めた。ところが、その暗号が無線を通じて伝わるや否や、島の各地にいた海兵隊から報告が飛び込んで来て、日本軍が米軍無線の中に入り込んでいると警告してきた。これは、今まで聞いたことのない言葉が無線で送られて来たため、日本語が行き交っているとの誤解が生じてしまったためだった。この問題は、暗号部隊が通信の始めに「アリゾナ」とか「ニューメキシコ」と英語で言うことによって、即時に解決した。

もう一つ予期せぬ問題が起きた。ナバホ人の顔立ちが日本人によく似ていることから、暗号部隊のナバホ兵士がしばしば米軍に捕らえられたり、殺されかけたりしたということだった。これは、同じ戦争で日系アメリカ人の米兵が米軍兵士に殺されかけたことに似ている。ある時、アメリカ陸軍の一部隊が海兵隊と連絡を取り、彼らが海兵隊の身分証明を持った日本兵を捕虜にしたと報告してきた。すぐ、海兵隊の士官がその場に駆けつけてその「捕虜」を見た。すると、何とその「捕虜」は、ナバホ暗号部隊の一人であったのだ。こんな間違いが起こるので、海兵隊は暗号部隊の一人一人にボディーガードの兵士を付けて一緒に行動するようにした。しかし、非情な戦争下、もしナバホ暗号部隊の一人でも日本軍の捕虜となってしまうと、軍事機密が漏れてしまう可能性があるので、そのような時は、付き添いのガードがナバホ兵士を殺す役も担っていたという。

 

硫黄島、沖縄と進む米軍。その中に常にナバホ暗号部隊があった。日本が無条件降伏した1945年。彼らの何人かは、軍隊に残ったが、ほとんどがナバホ保留区に戻った。そして、戦前と変わらぬ生活が再開したのだ。しかし、暗号は軍の機密中の機密であり、絶対に他言してはならない。従って彼らは、誰一人としてこの機密を漏らすことなく生活をしていた。
1968年になると新しい歴史が始まる。機密解除が発表されたのだ。1969年6月28日、海兵隊第4部隊の同窓会が行われ、20名のナバホ・コードトーカーが大メダルを受章している。2年後の1971年には、コードトーカーだけの同窓会が行われ、69名が再会した。この際、ナバホ・コードトーカーズ・アソシエーションが創立され、各地のパレードなどに参加するようになる。1977年のカーター大統領の就任式には、彼らコードトーカーが就任パレードに参加した。そして、5年後の1982年8月14日に時のレーガン大統領が8月14日をアメリカ・ナバホ・コードトーカーの日と宣言した。

 

さて、話は写真集「勇士達、ナバホ暗号部隊」に戻る。
前述のカール・ゴーマンさんが書き綴った序文の末尾にこう記されている。
「私たちの友情がナバホ・エネミーウェイの祭儀に行くことから始まったように、この本は、戦争の傷口を癒す象徴となる。私の日本人の友、ケンジ・カワノさん、アッヘヘ(ナバホ語で『有り難う』)。」
日本を敵として彼らが戦った太平洋戦争。戦後、かつての敵国から来たひとりの青年がカメラひとつで開いた信頼と友情の道。ここナバホの大地は、実に大きなスケールで、全てを飲み込みながら悠然と存在する。
来月は、河野謙児さんの活躍に焦点を当てて、再びナバホ・ネーションを走ってみよう。

 
ナバホとは?

英語のスペルがNavajoだが、読みはスペイン語なので「j」は「h」のようになり、ナバホと発音する。正確には、「v」があるので、ナヴァホの方が良いかもしれない。「ナバホ」の語源は、テワプレブロ族の言葉で、「涸れ谷の耕作地」という意味だ。
現在、アメリカには、ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の保留区が310カ所ある。その中で最大の規模を誇るのが、ナバホ族の保留区で、これを「ナバホ・ネーション」と呼ぶ。地理的には、アリゾナ州の北東部からニューメキシコ州にまたがり、一定の自治権を保有している。

   
 

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