ヒラリバーにあった日本人強制収容所は今、、、(1)

 

日本からアメリカに渡ってきた両親のもと、アメリカで生まれた日系二世の人たち。れっきとしたアメリカ市民であった。その市民が、ある日を境に敵国のスパイと疑われ、強制的に収容所に送られる。こんな不条理なことがこの国で起こった。まさに米国史のなかで最も暗い時代のひとつに数えられる出来事だった。
ことは、日本が宣戦布告なしにいきなりハワイのパールハーバーを攻撃したことから起こった。1941年12月7日(日本時間12月8日)に日本海軍艦隊によって行われた真珠湾攻撃。丁度10年前にニューヨークで起きた9.11のテロ攻撃にも似ている。突然の奇襲攻撃で日本人は「敵性外国人」となった。
1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、「大統領令9066号」に署名し、「強制的に『外国人』を隔離する」ことを認めた。そして、この「外国人」とは、日本人だけでなく、日系アメリカ人を含んでいた。
私たちの住むアリゾナは、この歴史と密接な関係を持つ。
まず、真珠湾攻撃で撃沈した米国戦艦は、その名が皮肉にも「アリゾナ」であった。
そして、日系人強制収容所は、全米で10カ所設けられた。その内2カ所がアリゾナ州内に開設された。アリゾナ西部のポストンとヒラ・リバー・インディアンの居留区内である。
今月は、その内、ヒラ・リバー強制収容所について見てみよう。

 

実は、余り知られていない事実がある。それは、アリゾナ州には、ポストンとヒラリバー以外にも日系人の隔離収容所が存在したことだ。それは、ナバホ保留区の中にあるループ(Leupp)という小さな村に建てられた。この収容所には、他の収容所で扱いきれない日系人、つまり、政府の方針や収容所のあり方などに反発して、従順でない「問題児」といレッテルを張られた人たちが送られてきた。そこでは、日系人はいわば刑務所での犯罪人のような扱いを受けた。

   

ヒラリバー・キャンプの生活

当時の収容所内の地図

ヒラリバー(Gila River)は、ヒラリバー・インディアンの保留区である。米軍による強制収容所の建設は、地元のアメリカ・インディアンの反対に会った。しかし、戦争下の時勢だ。当然、連邦政府は建設を強行した。そのヒラリバーに送られてきた日系人/日本人だが、そのほとんどは、サクラメント、フレスノ、そしてロサンゼルスに住んでいた人たちだった。
敷地内には、2カ所の収容所が設置された。ビュイット・キャンプ、カナル・キャンプとそれぞれ名称を付けられた。カナル・キャンプには、404軒の建物があり、内232軒がバラックと呼ばれる住居で、その他は管理事務所、食堂、シャワー用ビル、学校の校舎などで敷き詰められていた。ビュイット・キャンプは、821軒の建物で、627軒のバラックがあり、その他はカナル・キャンプのように管理局や学校、食堂などであった。
まさにキャンプは、砂漠の真ん中に突然出現した町のようなものだった。しかし、エアコンなどは存在しないため、夏の暑さは過酷なものだった。その上、ガラガラヘビやサソリなどが往来し、誠に不快で最悪きわまりない環境にあった。
収容所内では、日系市民協会が積極的に活動を行ない始め、仏教、キリスト教などの宗教行事が行われたり、バスケットボール、フットボール、相撲などのスポーツが始まった。野球は、ケンイチ・ゼニムラが中心となり、本格的な野球場が建設され6,000席の観客まで作り上げた。野球チームもでき、熱狂的なゲームが収容所内の雰囲気を活気付けたようだ。
学校は、幼稚園から高校まで設置されたが、教科書やタイプライターなど必要な学用品が慢性的に欠落していた。その上、イスや机は生徒達が自分で作ったものを使った。
食料は自給自足を目指す方針だった。ヒラリバーのインディアン収容所はもともと農耕地であったことから、日系人は肥えた土地を利用して作物を育てた。1942年の夏には、砂糖大根、人参、セロリなどの野菜が育ち始めた。後には、10エーカーの農地に大根畑が出来上がるまでになった。1943年と1944年は農業がピークに上り、全米の強制収容所の20%の食料は、このヒラリバーから生産されるまでになった。

 
大統領夫人の訪問

1943年に大統領夫人のエレナア・ルーズベルトがヒラリバーを突然訪問した。そして彼女のコメントが同年の10月10日にコリア・マガジンという雑誌に掲載された。エレナア・ルーズベルトは、夫のフランクリン・ルーズベルト大統領が日系人を強制収容所に送る決断に反対していた。
そこで彼女はこのように言っている。

私は、日本軍の手によって愛する家族や友人を失った人たちの苦しみをよく理解しています。そして、ナチス・ドイツであれ、ファシスト・イタリアであれ、日本であれ、全体主義の思想は冷酷であり残忍であることを私たちは知っています。こうした理解できる思いがいたずらに悪化してきた背景には、西海岸に昔から存在する経済的な恐怖感や自分たちと異なる人々と接することで生ずる不適切な人種差別の感情があります。
過ちを消し去るということは、過ちを犯さないということより難しいのが常ですが、私たちはそれを予見することがほとんどできません。ですから、私たちは過去の過ちを正す努力をしなければなりません。そして、収容所各地にいる日系アメリカ人の一人一人を知るようになっている戦時移転当局の勧告が受け入れられるように望みます。
ドイツ系アメリカ人がドイツ人でないと同様に、またイタリア系アメリカ人がイタリア人でないと同様に、そしてその他の国の背景を持つ人々がその国の国民でないと同様に、日系アメリカ人も日本人ではないのです。

アメリカには共通の人種などありません。しかし、全ての私たちが同様に目指す理想があります。人種や宗教の違いで私たちの間で他を見下すことがあれば、私たちは進歩できません。この国の全ての市民には、基本的な自由、正義そして機会の均等という権利があります。私たちは、個人の生活を望みのように向かわせる権利がありますが、それはあくまでも、私たちが自分たちの自由を認めるように、他者の自由を認めることによってのみ可能となるのです。

エレノアは、1945年に夫のフランクリンが亡くなった後、人権運動家として活躍し、国連の世界人権宣言の起草者ともなった。1953年には、日本を訪問している。

 
ヒラリバー強制収容所の経験を持つ日系人は、高齢化のため年々生存者が少なくなってきている。
ヒラリバーの体験者と言えば、あの有名な「ベスト・キッド(英語名はザ・カラテ・キッド, The Karate Kid」の映画でミスター・ミヤギを演じたパット・モリタが挙げられる。また、前述の通り、日系アメリカ人野球の開拓者と呼ばれるケンイチ・ゼニムラもここで収容所生活をしていた。ヒラリバーの体験者 92才の誕生日を迎えたばかりのイノシタさん

 

 

アリゾナ在住の体験者達

マサジ・イノシタさん

収容所跡の記念碑の
前に立つイノシタさん

イノシタさんは、先月12月で92才となった今でも、日系市民協会で活動を積極的に続けている。
1919年にカリフォルニア州のフレスノで日系二世として生まれた。真珠湾攻撃は彼が22才の時に起こった。その日を境に彼の人生は大きく変わっていく。まず、FBIが家に来た。そして、彼の目の前で父親に手錠をかけ、逮捕してしまう。何がなんだか理解ができなかった。無実の市民が日本人というだけで、敵となり、スパイの疑いをかけられた。残された一家は1942年4月に立ち退きを強制され、移動。そして、8月にヒラリバーに連れて来られた。まもなく父親もヒラリバーに送られ、一家が一緒になる。
イノシタさんの一家は、家屋はもちろん、持っていた農場も一切の家財道具も突如として失ってしまった。アメリカに忠誠を誓った日系アメリカ人がその国から裏切られた。
ある日、米軍のオフィサーが収容所を訪れた。志願兵の募集にやってきたのだ。そこでイノシタさんは志願をする。すると、アメリカ政府に憤慨している日本人や日系人の人たちからイノシタさんは非難されたと言う。
彼は、日本が無条件降伏した1945年8月を中国で迎えた。そして、除隊し、両親のいるアリゾナのグレンデールに戻ってきた。イノシタさんの志願を良く思っていなかったお父さんは、息子のイノシタさんの帰国を歓迎しなかった。家族の心は大きく分断されていた。
そんな中、日系市民協会で積極的に活動するようになる。イノシタさんが経験した辛い過去と現在。周囲の人々の苦労が痛いほどわかった。こうして、人権運動に関わり始め、学校や人権運動の団体などで強制収容所の体験を語り始めた。イノシタさんが語る話は、多くの人々に強い感動を与えてきた。2年前にはアリゾナ州立大学からマーチン・ルーサー・キング・サーバント・リーダーシップ賞がイノシタさんに授与された。また、ヒラリバー強制収容所跡の記念碑建設と毎回の記念碑の清掃作業に貢献してきた。

 

トム・コセキさん

 

1936年にロサンゼルスで生まれた日系二世。日本から渡米したコセキさんの父親は、シカゴの大学で教育を受け、第一次世界大戦の時に米軍に徴兵され、ヨーロッパ戦線で戦った退役軍人だった。そんな米国の退役軍人でありながら、真珠湾攻撃の日から人生が180度ひっくり返った。コセキさんは、まだ5才の少年だったので、よくわからなかったが、よく覚えていることがある。それは、その日、父親が家に帰ってきて、一家全員を前に「今日、日本軍がハワイを攻撃した。たぶん私たちはここを立ち退かなければならないだろう」と告げた言葉だった。それからすぐに父親の予想通り、強制的に引っ越しをしなければならなくなった。場所は何回も変えて点々と動いたようだ。家財道具は、父親の白人の友人が預かってくれることになり、一安心した。戦争が終わって、ロサンゼルスに戻ってくれば、再びすべてやり直せると思った。ところが、その友人がその後間もなく亡くなってしまった。そして、その友人の息子さんが家を引き継ぐと、彼はコセキさんの家財道具を一切売っぱらってしまった。こうして、コセキさんも一切を失ってしまう。
1942年、コセキ家はヒラリバーに送られてきた。ヒラリバーの収容所はまだ建設中で、色々なものが整ってなかった。コセキさんは収容所内の学校に通うことになる。そこでの白人の教師は日系人を見下していたようで、コセキさんは学校が好きでなかったと言う。いわゆる「悪ガキ」でいたずらばかりして、勉強は余りしなかったらしい。収容所内の大人の人たちがよく口にした言葉は、「仕方がない」ということだった。
終戦後、コセキさんの父親がユタ州の会社に就職することができ、一家はユタに移った。ここでコセキさんは、学校の教師や同級生達から「ジャップ」と呼ばれ、人種差別のつらい経験をする少年時代が続いた。その後、海軍に入隊して、横須賀に送られた時に今の奥さん、トモコさんと会い結婚した。現在はメサに奥さんと住む。

 

シミ・イシハラさん

イシハラさんは、多感な高校生の時にヒラリバーに送られてきた。カリフォルニアで育った彼女は、一家が全ての財産を失ったことを覚えている。
今は、ご主人と二人暮らし。今年の1月に住み慣れたアリゾナを去って、カリフォルニアに引っ越す予定。

   
 

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