パッシング・ポストン

 

Passing Poston

2008年作、ジョー・フォックス監督が手がけたドキュメンタリー・フィルム、「パッシング・ポストン(Passing Poston)」。この映画は、第二次世界大戦中、アリゾナのポストン強制収容所に送られた日系人の生の声をインタビューで入れながら、その当時の状況や日系人へのインパクトを描写している。そして、映画の後半部分では、今まで明らかにされていなかった意外な事実が浮き彫りになってくる。
今月は、この映画の名前を取って、緑豊かな田園風景が広がるポストンを通過(パッシング)しながら、日系人とアメリカ・インディアンの興味深い因縁を探ってみることにした。

   
ポストンはどこに?

ポストンは、一般に余りよく知られている場所ではない。この町は、アリゾナ州の西部にあり、南北に流れるコロラド川の東側に位置する。2010年国勢調査では、人口が285人。小さな町である。
ポストンより更に12マイルほど北には、パーカー(Parker)という町がある。この一帯はコロラド川インディアン居留区に指定されている。コロラド川の水を利用して広大な農場が広がり、モハビ族、ケメフエヴィ族、ホピ族、ナバホ族が生活している。

   
ポストン強制収容所
日本軍によるパールハーバー襲撃(1941年)をきっかけに表面化した露骨な日本人への敵視。それより以前、もともと日本人や日系人は厳しい人種差別の中を生きていた。そして、突然、日本が敵国となるや否や、彼らは強制的に住処(すみか)を追われ、強制収容所に送られることになってしまう。
ポストンの収容所は、1、2、3と番号で3つの収容区域から成っていた。1番の収容区域には、1万人、2番と3番は5千人づつ収容できるようにした。
収容所は、1942年5月8日に開所となり、1945年11月28日にその幕を閉めている。1942年9月までには、17,814人の人々が収容され、アリゾナ州でフェニックス、ツーソンに次いで3番目に大きな「町?」となった。この収容人数は、当時あった他の収容所の中で最も多く、全米最大級であった。
ここに送られてきた日系人/日本人は、その大半がカリフォルニア、特に南カリフォルニアで生活をしていた人たちだった。彼らは、汽車でパーカーまで輸送され、パーカーからは軍用トラックの荷台に乗せられてパーカーまで運ばれてきた。
   
収容所建設を請け負った建設会社

強制収容所の建設は、急ピッチに行わなければならなかった。1942年2月にルースベルト大統領により大統領令9066号が発令された。この大統領令で日本人/日系人は強制立ち退きとなり、収容所に送られることとなる。つまり、全米各地がものすごいスピードで強制収容所を作る必要があった。
当時、フェニックスに住み建設請負業者をしていたデル・ウェブのもとに米軍から大量の仕事が舞い降りてきた。その内最大のプロジェクトがポストン強制収容所の建設事業だった。
収容所1番は、3週間以内、そして2番と3番は、120日で完成したというから、誠に突貫工事であったことは間違いない。
この事業で成功したデル・ウェブアは、戦争直後の1948年、ツーソンのショッピング・センター建設に着手。そして、1960年にリタイヤーメント・コミュニティーとして、サンシティーを建設し一躍有名となる。

   
ポストンでの生活

彼らが住んだ住居は、バラックと呼ばれる小屋のようなもの。もちろん冷暖房などの施設は皆無。ポストンは、アリゾナ州内でも夏の温度が極めて高くなる場所だ。しかも砂漠の中の冬は、乾燥した寒気が板壁のすき間から容赦なく入り込んで来る。砂塵、へび、さそりなども外から簡単に室内へと忍び込む日々が続く。一軒のバラックには、普通、4家族が住み込み、壁で仕切られていないので、プライバシーなどあったものではない。女性、病弱な人、老人には、忍びがたい生活環境だった。
収容所の記録では、収容期間に662人の赤ちゃんが誕生し、221人が死亡したとの数字が残っている。

   
収容所とアメリカ・インディアン

この収容所の建設に当たって、現地に生活していたアメリカ・インディアンの人たちは大反対だった。彼らの言い分は、白人達に土地を奪われ、居留区内に追いやられてきた自分達の土地に、今度は戦争が理由で、勝手に収容所などを作るのは同意出来ない、ということだった。その上、日系人の強制収容政策は不正義であると主張した。しかし、戦争という異常な環境で、彼らの主張は無視されることになる。では、何故連邦政府はポストンを強制収容所の地として選んだのだろうか。その答えのカギは、連邦政府のインディアン管理局長官ジョン・コリアの活動にあった。

   
ジョン・コリア (John Collier)

ジョン・コリアは、1884年アトランタ州ジョージアで生まれた。そして、ニューヨークのコロンビア大学で学んでいる時に、社会倫理のあり方に興味を持ち、とりわけ後にアメリカ・インディアンの擁護を主張するようになる。1919年にニューメキシコ州のタオスにいる友人を訪ねた時、そこで知ったアメリカ・インディアンの文化と歴史に魅了された。彼はそれから2年間、タオスに住み、先住民に関する勉強と研究に取り組んだ。そして、これまでアメリカ政府が取ってきたインディアン政策は間違っていると信じるようになったのだ。
連邦政府は、長い間、アメリカ・インディアンの「アメリカ化」を促進し、同化させようとしてきた。彼は、この政策に強く反対意見を述べ、アメリカ・インディアン各部族の文化保護の重要性を訴えた。そして、インディアン居留区の土地割当は完璧に失敗しているとし、当時のインディアン管理局を非難した。
その後、彼は連邦議会に積極的に働きかけ、連邦政府によるインディアン政策の見直しを要求した。その結果、1928年にメリアム報告書が提出され、これまでの連邦政府のインディアンア政策はすべて失敗に終っていること、新たな政策が必要であることを詳細にデータを提示して発表された。
1929年の大恐慌によって、アメリカ経済の大破綻が起きると、連邦政府は、経済復興に向けて躍起となる。そして、インディアン管理局が大幅な予算増加を得ることになった。時をほぼ同じくして、フランクリン・ルーズベルト大統領は、ジョン・コリアをインディアン管理局の長官に任命した。
インディアン管理局長官となったコリアは、早速大胆な政策転換をしていく。これは、「インディアン・ニューディール政策」とも呼ばれる。つまり、アメリカ・インディアンの一定の権利を保護し、自治体としてそれぞれの部族政府に様々な政策決定権を与えるようになった

   
ジョン・コリアの大実験

1942年、コリアは、一計を思いついた。それはインディアン居留区の一大活性化のアイデアだった。
当時のコロラド川インディアン居留区は、貧困を極めており、アメリカ・インディアンの生活は惨たるものだった。農業と言っても砂漠の真ん中で水の確保は難しかった。電気も通っていない。道路も整備されている訳ではない。家屋も小さな掘建て小屋で、生活は実に惨めなほど厳しかった。
コロラド川が近くに流れていても、そこからの灌漑施設を工事する予算は出なかった。とりわけ、労働力が欠如していた。
その場所に17,000人もの人たちを送り込む。これで、願ってもない大量の労働力が手に入るのだ。
強制収容者を労働者として使い、インディアン居留区を安価で活性化できれば、一石二鳥だった。
近くのコロラド川からの農業用水を引く灌漑施設の建設、道路の整備、電力、学校の建設など、低廉な労働コストで大規模なプロジェクトが可能となる。
それでは、何故ポストンだったのか。それは、鉄道を使ってパーカーまで輸送が可能であったこと。ポストンという砂漠の真ん中で、脱走など不可能であったこと。そして、何よりも、コロラド川インディアン居留区を蘇らせるだけの労働力を収容する広大な土地があったこと。戦争は誠に皮肉な歴史を作り上げる。このポストンもその良い例であった。

   
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