パッシング・ポストン(5)

過去4回に渡って扱ってきたポストン強制収容所の歴史。今回は、最終回。昨年10月に朗報が入った。ポストンの収容所跡地がアメリカ合衆国歴史建造物の指定を受けたのだ。国がこの地を歴史上重要な場所と認めたことになる。しかし、ここに至るまでの道のりは容易なものではなかった。多くの人々が辛抱強く推進してきた歴史保存の運動だった。そして、この国定歴史建造物指定は、ひとつの大きな勝利ではあるが、また次への出発点ともなった。今月はそのプロセスを追ってみることにする。

   
ポストンに国定歴史建造物を

アメリカには、国定歴史建造物という文化遺産保護制度がある。古い建物で連邦政府が保存するに値すると判断したものは、こうした指定を受けられる。この指定を受けると、連邦政府の国立公園局から財政的な支援を受けることが可能となり、建造物の保存が容易となるのだ。
ポストン・リストレーション・プロジェクトは、ポストンの収容所跡地の保全を目指し、ここが国定歴史建造物として国家から指定が受けられるよう、運動を起こした。これには長い申請のプロセスが要求された。政府が求める細かい申請条件をひとつひとつ満たしていかなければならなかった。山積みの書類を抱えて、一歩一歩進めていった。そして、ついに昨年10月17日に国立公園局から指定承認の知らせが届いた。
さて次の段階は、公園局に援助資金の申請をしなければならない。将来設置を予定するビジター・センターや博物館のレイアウトなどを含めて、書類を準備し、本年11月1日に申請書を提出した。この許可がおりるまでには、約6カ月ほどかかるという。

   
バラックを戻そう

戦後、インディアン部族にただ同然で払い下げて処分されたポストン強制収容所のバラックの数々。そのほとんどは、長い年月の間、次々と姿を消していった。ところが意外にも、いまだにもとの姿のまま生き残っていたバラックがパーカー市内に見つかったのだ。この発見に喜んだポストン・リストレーション・プロジェクトの担当者達は、インディアン部族の助けを借りて、このバラック獲得に奔走した。これを入手し、ポストンの収容所跡地まで戻すことができれば、将来、人々に当時の収容所生活を少しでもわかってもらえる。そして、国家歴史建造物の指定を受ければ、そこに博物館、ビジターセンターなどを設置し、バラックを生きた資料として見てもらえるのだ。
彼らが見つけた生き残りのバラックは、人こそ住んでいなかったが、長い間物置のようにして使われてきたようだ。そこに明るいニュースが入った。そのオーナーがバラックを手放すことに承諾したからだ。
ところが、もう一歩でバラックの入手という直前に、このオーナーが死去してしまった。そこで、当プロジェクトの担当者達は、そのオーナーの弟を見つけた。ところが、彼が簡単にバラック引き渡しに応じなかった。その後、彼との交渉は難航したが、地元の部族代表者達の説得などで、ついにこのバラックはポストン・リストレーション・プロジェクトに渡されることとなったのだ。

   
バラック、誕生の地に

さて、バラックの入手は果たせたが、これをどうやってポストンまで移動させるかが難題だった。まず、バラックそのものは70年ほど前の木造建物だ。壁の板間は合わず、柱も斜めに立っている。それこそ、強風でも吹けば、そのままつぶれてしまうようななひどい有様だった。このままでは、パーカーの町からポストンまでの移動はもちろん、保存も難しい状況にあった。しかも資金が足りなかった。バラックの修復、そして大型トラックによる運搬。その経費は数万ドルに及んだ。また、もう一軒のバラックを寄付してくれる人が現れたが、資金不足でそのバラックはあきらめざるを得なかった。しかし諦めを知らない彼らは、苦労に次ぐ苦労の末、ようやく充分な資金を獲得。いよいよバラック移動へ。

   
バラック帰還の儀式

昨年7月18日。早朝から真夏の厳しい日差しが容赦なくパーカーの町を照らしていた。一応修復されたこのバラックは、すでに大型トラックの荷台に載せられていた。午前8時。人が集まり始めた。カリフォルニアから来たという日系人達、コロラド川インディアン部族評議会の議員、報道関係者などが集合した。
儀式の準備が整った。まず、この企画を長い間推進してきたポストン・コミュニティー同盟の代表者であるマーリン・シゲカワの開会の辞で儀式が始まった。次に、歴史建造物を扱う建築士のバーバラ・ダーデンがバラックの説明を行ない、その後、コロラド川インディアン部族評議会の代表であるジョニー・ヒルが彼の幼少期にバラックの建物で育ったという体験を話した。そして、収容所体験者であり牧師でもあるカール・ヨシミネがマイクを取り、彼自身の収容所体験と歴史保存の重要性を訴えた。最後にスピーチをしたのはヴァンス・スウィック部族長老。彼は全ての成功を部族伝統の祈りで結んだ。
その後、二人のインディアンの若者が部族で歌われている儀式の歌を披露。バラックが無事にパーカーに着くことを祈って「旅」の歌に託した。
こうして、日系人と地元インディアンとの共同で進んできたバラック移動が儀式終了とともにスタートした。地元警察が白バイで先導し、大型トラックが力強いエンジン音を立てながらフル回転する。巨大な荷台がゆっくりと揺れながら、ポストンに向かい始めた。普通の運転なら15分ほどで着くポストンだが、なんと1時間余を費やして、目的地に到着した。なんと70年ぶりにこのバラックがその誕生の地に帰還を果たしたのだった。

   
ポストンの将来

さて、2003年からすでに9年余の年月を費やしてきたこの事業だ。この収容所跡地にビジンター・センターが生れ、博物館ができ、一般客が訪問できる日まで、まだ少なくとも数年はかかるという予測だ。しかし、今回、国家歴建造物の指定を獲得した業績は多大なものである。今後100年いや数百年後にも、ポストン強制収容所の歴史が忘却されないで、伝えらていくことが可能となったからだ。悲惨な戦争と不当な権力の横暴。少数民族の悲劇と不屈の闘志。異民族間の調和と共生。これら全てがこのポストンの地を訪れる人々の口に語られていく時代が到来する。

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