テーブルトップの町、メサ

フェニックスの周辺地域の人口増加は、アリゾナに多大な影響を与えてきた。これまでも、様々な中心がフェニックスにありながらも、周辺の都市はそれぞれのユニークな個性を生かしながら、発展をしてきている。今回は、そのひとつ、メサ市を歩きながら、その歴史や役割などを探っていこう。

ダウンタウン
ホホカム族の遺跡

 

   
現在のメサ
メサ・アーツ・センター

メサ市は、フェニックス市の隣町テンピ市の東に位置し、すぐ北にはソルトリバー・ピマ・マリコパ・インディアン居留区、南にはチャンドラーとギルバート、そして東にはアパッチジャンクションといった市が隣接している。
メサは、アリゾナ州内でフェニックス、ツーソンに続いて3番目に大きな都市で、人口は約44万人(2010年国勢調査)。
この町の誕生は、もともと他州から移ってきたモルモン教徒が19世紀後半に入植してスタートした。現在でも多くの住民がモルモン教徒である。

   

 

モルモン教徒が始めた町、メサ
リーハイ・ロードの標識

1830年にジョセフ・スミス・ジュニアによって始まったモルモン教。キリスト教の中では異端視され、迫害をのがれて、東部や中西部から西へ西へと移動し続けた。彼らの移動は、ある意味ではアメリカ西部開拓に歴史上、大きなインパクトを与えている。
さて、そのモルモン教徒の人たちがユタ州のソルトレイク・バリーに定住し、教会の本部を設置したのは、1847年だった。ところが、キリスト教の宗教観の違いや当時認めていた一夫多妻制の慣習などから、地元の地域住民との間に軋轢が生れ、米陸軍と戦闘状況に陥る。これをユタ戦争と呼ぶ。そして、1858年にやっと教団と連邦政府との和解が成立し、戦争が終結した。後の1890年には、教団は、一夫多妻制を自主的に放棄した。
こうした背景から、モルモン教徒の人たちがアリゾナにも入植してきた。まず、1877年、ユタからダニエル・ウェブスター・ジョーンズの率いる8家族が馬車でアリゾナに移ってきた。彼らが求めていたのは、安心して宗教生活ができる場だけでなく、農業を営んで定住できる所だった。彼らが、その地として選んだのは、リーハイ(Lehi)という場所であった。ちなみに、リーハイは、モルモン書の中で記述されている予言者の名前だ。

   

 

1877年に入植者によって最初に出来た建物の複製。
現在は、Lehi RoadとHorn Roadの角にある。
シリン・ハウス。1896年の建設。メサ市が買い取り補修した。
アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
   
次の入植団

ジョーンズら一行がリーハイに入植した翌年、今度はユタとアイダホの2州から85名のモルモン教徒がやってきた。先に入植していたジョーンズは、彼らをリーハイに招いたが、彼らはもう少し南の位置に定住することを決めた。そこは、周辺より少々高台になっている平地なので、メサと名付けた。メサとはスペイン語で「テーブルトップ」という意味だ。そして、この場所には、農業に不可欠な灌漑用水路跡が埋もれていたのだ。
この用水路こそ、ホホカムと呼ばれているアメリカ古代先住民達が築いていたものだった。すでに何百年も前に彼らが捨てていった用水路だが、ソルトリバーから水を引くことができるようによく設計されていた。モルモンの入植者達は、この用水路をきれいに清掃し、再び活用できるように整備することに成功した。

 

 

ホホカムの偉業

ホカム族は、北米の多くの古代先住民の中で用水路を築いて農業を営んだ唯一の民族である。とりわけ、ソルトリバーの水を灌漑用に利用し、川からまるで無数のタコの足のように何本も用水路を伸ばし、砂漠の荒野に農地を切り開いていた。その彼らの偉業は後になればなるほど、知られるようになる。
何世紀もの長い間、定住してきたこのアリゾナを、ある日突然、全て見捨てるかのように、どこかに移住してしまった。考古学者の調べでは、1375年以降、用水路と村落は砂漠の中に埋もれていくようになったようだ。
しかし、この用水路跡がその後、アリゾナをここまで変えるとは、当時の彼らには想像もすることができなかっただろう。

メサで今も使われている用水路

 

 
ジョン・ラッセル・バートレット
(John Russell Bartlett)

1850年のアメリカ・メキシコ戦争の後、ジョン・ラッセル・バートレットがアメリカ合衆国・メキシコ国境調査委員に任命され、アリゾナにやってきた。彼は、ソルトリバー・バリーの北に大きな古墳があると聞き、地元の先住民、オドム族のガイドを雇ってその地を訪ねた。そこが、実は今のフェニックスだ。そして、今度は、1852年7月4日に、今のメサにやってきた。そこでも遺跡があったのだ。
彼はその時のことをこう記している。
「1マイルも馬に乗っていくと、そこは台地のような所だった。平地の上に大きな土砂の固まりや土の積み重なったようなものがあった。その底には、多くの灌漑用の用水路が通っていた。そして、台地の土台の部分には、20から25フィートの幅で5フィートの深みがあった。」
彼が記述しているのは、実は今も保存されている「メサ・グランデ遺跡」なのだ。彼は、その場所の様子をスケッチにして描いた。荒涼とした砂漠の平地に小さな丘のようなものが描かれている。これこそ、ホホカム族が遺していった遺跡だった。

 

 
(上)バートレットのスケッチ
考古学者モアヘッドが描いたホホカム族の用水路。
ソルト川の左右にタコの足のように伸びて何本も作られた。
   
メサ・グランデ遺跡

ホホカム族の遺したソルトリバーに沿った大型の古墳は、現在2カ所しかない。それは、フェニックスの空港のすぐ北に、プエブロ・グランデ博物館考古学遺跡とメサ・グランデ遺跡だ。考古学者達の発掘によってわかっているのは、メサ・グランデの周辺にあった村落には約2,000人程の人たちが住んでいたようだ。ここを流れる用水路周辺には、約27,000エーカーもの広大な農地が広がり、農作物が大量に生産されていた。現在は、この地にメサ市やその周辺の町が広がっている。
メサ市では、この古墳を1980年に買収し、メサの主要な文化財として保存してきた。そして、本年初頭にメサ・グランデ文化センターがオープンされ、ビジターなどを受け入れる場所として新たに出発した。

 

 

住所:1000 N. Date Street, Mesa, AZ 8520
tel: 480-644-3075

 

メサ市の誕生

話は、再び19世紀のモルモン教徒達の入植に戻る。
1878年7月17日、入植中心者の一人、セオドア・シリンが現在のダウンタウン一帯を「タウン・センター」という名前で登録した。その後、1883年にメサ市が誕生した。反面、リーハイは、ソルトリバーの洪水で大被害を受け、その発展は限界に至っていた。一方、メサが中心地となって成長していくなかで、結局リーハイは、メサ市の一部となって併合された。
メサの初代市長は、アレクサンダー・マクドナルド。現在、ダウンタウンの道路の一つが彼の名を使っている。そして、1892年には、新聞出版が始まった。この新聞社が現在のイースト・バリー・トリビューン紙の前身である。

   
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