かつての黄金探求の通路は今、、、
ユマの町を散策(3)

今月は、先月に続いてユマの歴史を探ってみる。人々は夢を追って西へ西へと向かっていた。コロラド川を渡れば向こうは黄金の州、カリフォルニアだ。その手前の町、ユマは、白人、メキシコ人、アメリカ・インディアン、そして中国人と、様々な人々が交錯してドラマを作り上げていった。さあ、再び19世紀末のユマの町をしてみよう。

   
ユマのパイオニア、レドンド(Redondo)

ユマの草創期にその開拓の礎を築いたパイオニアの名は、ホセ・レドンド。メキシコ、ソノラ州の小さな町、アルタルで生まれた。もともとスペインのカスチリアで富裕な一家だった彼の祖父母がメキシコに移り、この町に定住した。1848年にカリフォルニアで金鉱が見つかった。翌年19才のホセ・レドンドは、ゴールドラッシュの中に飛び込んでいた。1854年にアリゾナの砂漠を旅していた彼は、この荒れ地に果てしない可能性を見た。そして、1859年に再びアリゾナに戻り、今のユマ近辺に来たのだ。彼の見た可能性とは、農業だった。この砂漠に水さえ確保すれば、広大な農地が広がり、燦々と降りそそる太陽光線と温暖な気候で農業は必ず成功すると確信した。
彼は、早速ヒラ川の一部をせき止め、全長27マイルの用水路を建設して、そこに大規模な農場を作った。ここで、今までアリゾナでは育たなかった農作物を次々と生産した。ユマ、フォート・ユマ、近辺の鉱山、鉄道工事現場などにエンドウ豆、ネギ、メロン、キャベツ、ポテト、キュウリなどの野菜を出荷した。今でこそユマで有名なレタスも彼が始めたものだった。その他に、大麦、トウモロコシ、サトウキビを栽培し、果樹園では梨、イチジク、プラム、セイヨウナシ、クルミ、ブドウとジャンルを広げていった。また、サロウキビを利用した製糖工場、製粉工場を作り、牧畜業を始めて牛肉も販売した。
こうして成功したレドンドは、更に蒸気船が泊まる波止場近辺に酒場を営業し、製パン所、ワイン醸造所、そして霊柩車業務まで手広くビジネスを広げていった。
ユマでの彼の存在は、多大なものになり、政界にも出て、アリゾナ準州の議員も務めた。レドンドは、ユマ農業の父とも呼ばれ、またユマ準州刑務所の父とも呼ばれている。当刑務所の建設資金を準州から捻出させたのもレドンドの政界での努力の結果だからだ。
1878年に天然痘で亡くなった彼は、まだ48才の若さであった。その時、現役のユマ市長を務めていた。

ユマ刑務所州立歴史公園の中にある博物館に掲げられたレドンドの写真
 
オーシャン・ツー・オーシャン・ブリッジ(Ocean-to-Ocean Bridge)

現在、高速道路を通らないでユマからカリフォルニア州に行くには、この橋を渡らなければならない。それが、オーシャン・ツー・オーシャン・ブリッジと呼ばれる鉄橋だ。和訳すると「海と海をつなぐ橋」ということになる。ところが実際にこの橋が結んでいるのは、コロラド川のカリフォルニア側とアリゾナ側の土地である。海ではないのに、何故このような名前になったのだろうか。
この橋の完成は、1915年である。それ以前の橋は木造で、コロラド川が氾濫する度に破損がひどく、使えなくなる。そこで、鉄橋建設の必要性が訴えられた。そこで1913年ユマの市民が当時のアリゾナ州選出のカール・ヘイデン上院議員に働きかけ、米議会を通して鉄橋建設の許可を取ることにこぎつけたのだ。建設資金は、連邦インディアン局からその一部が賄われている。これは、地元のケチャン族の居留区に大きなプラスになるという理由らしい。
さて、その名前だが、当時太平洋側のサンフランシスコから大西洋側のニューヨークまで車で行くとすると、どうしてもこの橋を通過する必要があった。そこで、太平洋と大西洋を結ぶ橋ということで、この名前になった。

   
橋を前に無念の涙を飲んだ人たち

1930年代このオーシャン・ツー・オーシャン・ブリッジには、カリフォルニア州警察が常駐した。というのは、当時の大恐慌で大量の失業者とその家族が仕事を求めてカリフォルニアに向かっていた。あのスタイベック著「怒りの葡萄」でも登場したオクラホマの農民が次々とカリフォルニアに向かっていくような姿がここにもあった。過剰なホームレス増加に業を煮やしたカリフォルニア州は、州警察を送った。彼らは、この橋を渡ろうとする人々を一人一人チェックし、カネも仕事のあてもない人たちは、カリフォルニアに入り込むことを許可しなかった。したがって、せっかくユマまでたどり着いた人々の多くは、その先への旅を断念し、ユマ周辺に残らざるを得なくなってしまった。ユマ準州刑務所跡は、こうした人たちが群れをなして住み込んだ。町の周辺は、難民キャンプのような有様だった。カリフォルニア行きを断念してユマに残った人たちの中には、その子供が後にユマの市会議員になっている人もいる。

   
その後の橋

1970年代初頭に高速道路8号線が完成した。この高速道路は、この橋の上に橋を眺めるように走っている。1915年に出来たオーシャン・ツーオーシャン・ブリッジは、時の経過とともに老朽化し、その利用度は激減していくことになる。そして、1978年にはこの橋は、国定歴史建造物に指定され、その保存を国が保証することになった。1988年になると、自動車での橋の通過が禁止され、歩行者のみ利用が許された。そして、2001年、大規模な改修工事が行われ、翌年工事完成とともに再びオープンとなり、自動車も歩行者も両方が利用できるようになった。
さて、この橋は現在もその役割を果たしている。ただし一車線のみの橋なので、橋の入り口の両端には信号が備え付けられ、順番に一方だけの通行を可能としている。

   
ユマ・クォーターマスター・デポ(ユマ補給倉庫)

1864年に米陸軍の補給倉庫本部として出発したユマの重要拠点がある。これは、当時軍事的にも要所となっていたユマに駐屯する陸軍への食料や軍事物資を補給する使命を担っていた。大量の物資がカリフォルニアで船積みされると、そこから太平洋を南下し、メキシコのバハカリフォルニアの南先端まで行き、そこからメキシコ湾を北上した。そして、コロラド川の河口に入り、更に北上してユマに到着するという、気が遠くなるほどの長距離を長時間かけて運搬していた。積み降ろしされた物資は、この補給倉庫に保管され、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダ、ユタなどの最前線に配分されていった。従って、ここは蒸気船と馬車とラバと人が交錯して大変活気を擁していた。ちなみに運搬用に使われたラバは、900頭もいたようだ。
こうした倉庫基地も使命を終えるときが来る。それが1877年のサザンパシフィック鉄道の完成だった。1880年に補給倉庫本部は、ツーソンのフォート・ローウェルに引っ越しをする。こうして、ユマ補給倉庫は、陸軍信号司令部が1891年まで居残った。その後、アメリカ気象庁が入居し、1949年まで気象庁が使っていた。
1960年代からこの敷地の歴史保存を必要とする声が挙がり始めた。こうして、ユマ市が敷地購入をし、1997年にユマ・クオーターマスター・デポ州立歴史公園として誕生した。ユマ・クオーターマスター・デポ州立歴史公園は、ユマ準州刑務所州立歴史公園とともに、ユマ・コロッシング米国遺産地域となっている。

 
ユマのレタス

前述のレドンドの努力などで、ユマの農業は目覚ましい発展を遂げた。とりわけユマやその周辺で生産されるレタスは有名。全米の90%以上のレタスは、カリフォルニアとアリゾナで生産されている。その中心的役割を果たしてきたのは、何と言ってもコロラド川の水を利用して農地を開拓したユマである。毎年3月にはユマ・レタス・デイズとして週末にフェスティバルが行われる。これには、25,000人もの訪問者が集まり、レタスの品種やユマ農業の歴史などを学びながら、新鮮なレタスを楽しむ。ユマ郡は、全米第3位の農業生産地域となっている。その産出金額は、年間32億ドルで、アリゾナ全州の農業収入の3分の1を占めている。

   
  関連記事
かつの黄金の通路は今、、、ユマの町を散策
かつの黄金の通路は今、、、ユマの町を散策(2)