砂漠の砂丘、インペリアル・サンド・ドューン(2)

アメリカ南西部に横たわる広大な砂丘。長い間、人間の往来を困難にしてきた砂漠地帯だった。そこにラクダではなく、自動車で通過しようとしたアメリカならではの歴史が、この地にはある。西へ西へとカリフォルニアの夢の天地をめざす人々と、道路建設を可能にしようとした人間の格闘の場所でもあった。今は、その砂丘も高速道路を走る車窓から難なく眺めることができる。また、その向こうには鉄製の国境フェンスが二つの国を分けて仁王立ちになっている。
今回は、前号に続いて、このインペリアル砂丘の中を歩いてみよう。

プランク・ロード(厚板の道)、最初の工事

プランク・ロードの工事が最初に始まったのは、1915年だった。フォードのTモデルという自動車が登場したのは、1908年。この自動車が車社会の到来をもたらした。プランク・ロードは、その車社会の始まりに呼応する人間の知恵の産物だった。鉄道の線路のように、車の両車輪が板の上を走れるように平行に敷かれていった。板と板とは簡単につなぎ合わせられ、いつでも取り外してができた。と言うのは、風が砂の位置を変え続けるため、板の位置をいつももとに戻す必要があったからだった。この最初の試みは、案としては素晴らしかったが、砂漠に容赦なく照りつける太陽光線と乾燥しきった砂丘、そしてその上を何台も走る車両がプランク・ロードを破壊した。1年もサバイブすることなく、このプランク・ロードは消滅してしまった。

   
第二段階

次の年、1916年。プランク・ロードの生みの親、フレッチャーは新たな案を出してきた。今度はプレハブ工法を使った厚板を列ねて並べ、一部には道路の表面にタールを使った。このプランク・ロードは1917年に完成したが、砂丘が常に移動しているので、四六時中のメンテナンスが必要だった。4頭の馬と2人の補修工員が常に道路の状況を監視し、補修工事を続けた。時々砂丘を襲う砂塵の嵐が来ると、それこそ必死の思いで道路を死守した。夏の炎暑はさらに過酷だった。厚板が熱で割れるからだ。

 

 

プランク・ロードの終焉

耐えざる補修工事と増加する交通量にカリフォルニア州のハイウェイ委員会は頭を痛めた。そこで、検討に検討を重ねた結果、1923年の冬、より永続的な道路建設をすることに決定した。補修問題を解決し、永続的な交通手段を確立するには、アスファルトで舗装した本格的なハイウェイを作る以外ない。1926年、ついにその新道路建設が始まった。これが現在のハイウェイ80号となる。10カ月の工事を経て新道路が完成したが、それは、プランク・ロードの終焉を意味していた。

 

 

プランク・ロードの歴史保存へ

 

ハイウェイ80号が完成した翌年、プランク・ロードは国の歴史にとって重要であるとし、その保存を要求する声が高まり始めた。それから4年後の1930年になると、アリゾナとカリフォルニアの2州にまたがる市民達からプランク・ロード保存の嘆願書が提出された。これは、旅行者達がプランク・ロードで使われた板をキャンプファイヤーに使ったりして、急速に厚板が消滅していることに危機感を覚えた住民からの要求だった。その後、1934年、プランク・ロードで使われた厚板の一部が全米の博物館に送られて展示されるようになった。1936年には、オール・アメリカン・カナルという用水路が砂丘の中に建設された。この用水路は、周辺の農業用水を確保するためのもので、その工事でプランク・ロードが更に消滅してしまった。1962には、高速道路インターステート8号が建設された。この工事でさらにプランク・ロードがなくなってしまった。
こうして、ついに連邦政府の土地管理局がカリフォルニアのインペリアル・バリー・パイオニア歴史協会やオフロード車両協会などと共同で、プランク・ロードの1,500フィート分だけ安全な位置に移動させ、フェンスで囲って保存することとなった。今、砂丘の中に一部のプランク・ロードが訪問者の目に止まることとなり、その歴史的な意義を説明した碑が建てられている。

   
インペリアル・サンド・ドューン・レクリエーション・エリア

第二次世界大戦後、この砂丘は、オフハイウェイ車のレクリエーションに絶好の場となった。戦後、軍用に生産されたジープが大量に残り、一般民間人に低価格で売られるようになった。このジープが現在のオフハイウェイ車(OHV)の源となった。砂丘は、もってこいの場所として、こうした車両がエンジン音高らかには走るようになる。現在世界で人気のあるバギーカーは、この砂丘が出発点となった。
現在、土地管理局が管理するレクリエーション・エリアには、キャンピングカーでエリア内に寝泊まりしながら、OHVを砂丘で乗り回す人たちが絶えず訪れている。
猛暑の夏になると、こうした車が姿を消し、タイヤの跡が皆無の自然そのままの砂丘が出現する。どれほど多くの車両が走っても、砂の丘にはその跡を次々と消していく魔法の風が吹き続けている。

   
メキシコとの国境

砂丘の南部はメキシコである。かつては砂丘を通ってメキシコから次々とアメリカに来る人たちが絶えなかった。近年、非合法滞在者や麻薬密輸業者の増加問題などで、砂丘の上の国境にも厳しい監視の目がはりめぐらされるようになった。

 

 

砂丘に建つ国境の壁

砂丘にはしっかりとした地面がない。そこに国境の壁を建設するには、壁を支える地面の問題を解決する必要がある。
そこで地下にはフェンスの両面を支える支柱と底を支えるコンクリート板が設置されている。この2008年に作られたこのフェンスは、フローティング・フェンスと呼ばれ、その名のごとく浮動のフェンスだ。常に動いている砂丘。砂がフェンスの周囲に重なってくると、機械でこのフェンスを引き上げる。すると砂がフェニスの底に落ち込み、フェンスは一定の高さを保つことができる。
この浮動フェンスは、砂丘の上の壁を保つ苦肉の策となっている。

 
   
フェンスを越えようとしたSUV

2012年の10月のある深夜。国境警備隊がインペリアル砂丘の国境フェンスをパトロールしていた。そこに奇妙が光景が警備隊員の目に飛び込んできた。フェンスの上に白いSUVトラックが乗っかり、メキシコ側からアメリカ側の地面に大型の鉄の梯子のようなものがあった。まさに誰かがこのフェンスを車で越えようとしたようだ。ところが、車が動かない。よく見るとフェンスの頂上に車の底の一部がひっかかり、身動きができなくなっていたのだ。
警備員が近づくと、2人の男がそこからメキシコ側に逃げ去っていった。車の裏ドアが開きっぱなしになっているところを見ると、メキシコから持ち運ぼうとした麻薬など密輸品を車から下ろしたようだ。
警備隊は、その朝、車と鉄の梯子を回収。フェンスの効果を警備隊が確認したようだ。
フェンスができる以前の2007年には、警備隊員の一人がこの付近で殺される事件もあった。
堅固な鉄のフェンスで分断された砂丘だが、人の動きは止められても、砂の動きはこれからも永遠に続いていく。

 

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