テーブルトップの町、メサ(4)

これまで3回にわたって掲載してきた「メサ市」の歴史や話題も今回が最終回。先月号では、メサ市に住む「イケダ家」の功績を紹介した。今月は、やはり同じ「メサ市」に住む日本人、小野沢愛子さんを訪ねた。小野沢さんは、1968年のメキシコ・オリンピックで女子バレーボールの選手として出場。銀メダリストとなった。
本年は、冬季オリンッピックの年。ロシアのソチで行われたオリンピックに世界中の目が集まった。そんなタイミングからオリンピックに出場し、見事な結果を出したアリゾナ在住の日本人を紹介しよう。

JBAA新年会で挨拶する小野沢さん
 
文部大臣からの表彰状
スパイクを決める小野沢さん
写真提供:小野沢愛子さん
   
当時の日本

 

1945年、日本は太平洋戦争に敗北し、何もかもが混沌としていた。その中を少しずつ立ち直ろうと国全体が懸命だった。1960年、池田勇人が総理大臣となり、第一次池田内閣が誕生。池田総理は、「国民所得倍増計画」を発表。10年間で国民所得を当時の13兆円から26兆円に倍増させるという目標を掲げた。そのため、輸出を促進させ、外貨を稼ぎ、国民所得を増加させて、雇用拡大し、失業問題を解決するというものだった。
日本は、1950年の朝鮮戦争というお隣の国の惨禍により、特需、つまり急激な需要増加があり、経済が復活し始めた。戦争で破綻した国が戦争で返り咲くという皮肉な歴史がここにもある。
池田内閣の経済政策は、こうした返り咲きの流れの中で功を奏し、その目標の国民所得26兆円を上回る結果を創出した。いわゆる高度経済成長の到来だった。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電が三種の神器と呼ばれたのは、この時期である。そんな時代に大きな寄与を果たしたのが、東京オリンピックだった。1964年に晴れやかに行われた東京五輪。同時期に東海道新幹線、東名高速道路などが建設され、ブームがブームを呼んでいた。
   
東洋の魔女
日本中がテレビの前に釘付けになっていた。いわゆる三種の神器のひとつであるテレビが一般家庭に出回り始めた。何としても、オリンピックを観戦しようと、国民が無理をしてでもテレビを買い求めた。当時のテレビはもちろん白黒画面。この東京オリンピックが果たした需要効果は計り知れないものがある。
そして、その画面に登場したのが、日本女性達だ。この女性達は、「東洋の魔女」と呼ばれた。彼女らは、当時の日紡貝塚女子バレーボールチームのメンバーで、大松博文監督が率いる最強勢力となっていた。その日紡貝塚は、1961年にヨーロッパ遠征で22連勝という驚くべき記録を残した。そして、翌年1962年には、世界選手権大会に出場し、日紡貝塚10名と高校在学の2名が日本代表チームとしてゲームに臨んだ。当時、日本の宿敵はソビエト連邦(通称ソ連、現在のロシア)であった。前年、日本の強さに驚愕したソ連は、彼女らを「東洋の魔法使い」と呼んだ。さて、当大会の焦点は当然、日本対ソ連戦であった。世界の目が注目する中、日本チームは、ソ連を見事に下し大勝利。その結果、大会で初優勝を果たしたのだ。
こうして、女子バレーボールは、日本全国から熱い視線が注がれていた。そして、迎えたのが東京オリンピックだった。
   
ソ連を屈した日本

1964年10月10日に始まった東京五輪は、いよいよ10月24日の最終日を明日に控えていた。その最終日の前夜である23日、駒沢屋内球技場は超満員。ものすごい歓声と熱気の中、日本対ソ連女子バレーボール決勝戦が行われた。これを生中継したNHKは、その視聴率が66.8%という高記録を出し、NHKも驚いた。
この日の日本チームは、日紡貝塚10名、倉紡倉敷1名、ヤシカ1名の計12名で構成されていた。
放送を中継していたアメリカのテレビ局のコメンテーターが、日本勢を「The Oriental Witches」と何回も呼んでいた。つまり、「東洋の魔女」の名が世界に広く知られた時だった。
試合は、日本が2セットを取り、3セット目に何回もねばるソ連チームを押しのけ、勝負を決めた。日本チームがついに金メダル獲得に至った瞬間だった。

 

 

小野沢愛子さん
小野沢さんは、神奈川県で太平洋戦争終結の年、1945年に生まれた。彼女は背が高いため、中学1年生の時、学校の教師の勧めでバレーボールを始めた。試合では高身長を使ってプレー。毎日バレーボールの基礎を身につけていった。その後、バレーボールでは県内で強豪を誇っていた京浜女子商業高校に進学し、バレーボール部に入部。1961年の秋田国体で当高校のチームは、3位入賞に輝いた。
高校卒業と同時に1964年、ヤシカに入社し、ヤシカの実業団バレーバール部に入る。退部は、7年後の1971年。そのキャリアの間、一番つらかったことは、「勝てなかったこと」だと言う。毎日厳しい練習に明け暮れる。体がへとへとになっても、ジャンプをし続ける。しかし、どんなに練習しても、ヤシカのチームは勝てない。当然、目標はニチボー貝塚(日紡貝塚からカタカナに変更)だ。ニチボー貝塚は、1959年から1966年までの8年間で258連勝。海外遠征でも無敵であり、日本国内でも次々と連戦連勝の記録をのばしていた。一方、小野沢さんの所属するヤシカは何回もニチボー貝塚に挑戦。その度に敗北した。「万年2位」だったと言う。

ヤシカのチーム(矢印が小野沢さん)
写真提供:小野沢愛子さん
 
Aクイック、Bクイック
ヤシカの女子チームは、全日本男子チームと同じ場所で練習をしていた。ある日、男子チームがAクイックやBクイックの練習しているところを見ていたコーチが、女子チームも同じことができる、と言い出した。それは、彼女らが経験したことがない速攻戦法だった。Aクイックは、セッター前付近にいる選手が早目にジャンプし、セッターがそれに合わせてトス。そのトスしたボールを即スパイクするというもの。トスしたボールより先に跳び上がって、空中のボールが上がってくるのを待って打つという戦法だ。あまりにも速く、相手にはブロックするチャンスがない。Bクイックは、セッターの位置が少々遠く、それでも上がったボールを空中で待って打つという速攻だった。また、セッターが後方に上げたボールを打つ。これをバックBという。
この攻撃戦法を取り入れることにしたヤシカの女子チーム。小野沢さんは、毎日毎日跳んだ。最初は中々うまくいかない。セッターとのタイミング。ボールの高さ。ジャンプの高さ。初めてのものに挑戦するのに、避けて通れない道だった。何回も何回も練習を重ねる。体が疲労困憊していても、さらに続けた。
   
ニチボー貝塚をアタック

1966年8月6日。場所は、駒沢屋内競技場だった。2年前にオリンピックで女子チームがソ連を打ち負かして優勝したその場所。そこで世界選手権兼アジア大会代表選考会が行われた。ここでヤシカがニチボー貝塚と戦う。まず、第一セットをニチボー貝塚に15対2で取られる。すると、ヤシカが反撃。第2セットと第3セットをヤシカが取る。第4セットは、ニチボー貝塚が取り返す。そして第5セットで「打倒ニチボー」をスローガンにしてきたヤシカが、ついに、ニチボーを倒した。こうして、ヤシカが勝利し、ニチボー貝塚の259連勝を阻止したのだった。
小野沢さんにとって、バレーボールのキャリアで一番うれしかった時は、この瞬間だったと言う。日本中がこのニュースに湧いた。マスコミも大々的に取り上げた。長い長い道のりだった。
その翌年、1967年には第一回日本リーグで小野沢さんは、スパイク賞とブロック賞を獲得。ヤシカが準優勝しながら、彼女は、最優秀選手に選ばれた。そして、同年全日本メンバーに選出され、世界選手権で優勝。ついに、メキシコ・オリンピックへの戦いを目指し始めた。連日、「仮想ソ連」を念頭に練習に励んだのだ。

ヤシカの劇的な勝利を伝える新聞報道
(写真提供:小野沢愛子さん)

 

テレビのモーニングショーに出演。小野沢さんは右から7人目
(写真提供:小野沢愛子さん)
 
メキシコ・オリンピック

東京オリンピックの4年後。場所はメキシコシティーに移った。オリンピック参加の日本女子バレー・チームは、計12名。ヤシカから小野沢さんを含む3名が入った。メキシコシティーは標高が高く、空気が薄い。しかし、日頃の厳しい訓練を通過してきた小野沢さん達には、全く問題はなかったようだ。
この五輪でもソ連チームが全勝。そして日本チームも全勝。またしてもこの両者による宿命的な決勝戦となった。ソ連は、東京大会で敗北して以来の4年間、この雪辱戦にかけてきたに違いない。さて試合が始まると、案の定、ソ連勢はパワーで日本チームを圧倒してきた。わざの日本より、力で押してくるソ連。強打に次ぐ強打に日本が押され気味だった。
そして、最終的に3対1でソ連に勝利を譲ることになった。結果として、日本は銀メダルを獲得したが、当時の新聞報道では、日本チームがいかにも口惜しい表情であったかを記事にしている。

   
その後の小野沢さん

日本女子バレーチームは、メキシコでの雪辱を4年後の五輪で果たそうとしていた。1972年はドイツのミュンヘンでオリンピックが行われる。小野沢さんもこのチームに名を連ねていた。しかし、彼女自身の思いがあり、オリンピックの前年、1971年に引退の決断を下したのだ。周囲は本当に残念がったが、彼女の意思は固かった。
バレーボールから身を引いた小野沢さんは、今度はボウリングを始めた。プロボウワーを目指していた。その後、座間の米軍基地に軍人としてきていたアメリカ人、ジョージ・シュワイカートさんと知り合い、1975年に結婚。翌年、ご主人の知人がアリゾナにいるということで、フェニックスに移ってきた。

アメリカのプロ女子バレーボールに


アリゾナに来た小野沢さんには、全く新しい生活が待っていた。日本で生まれた息子さんの養育も大きな仕事となった。当時、アリゾナには現在のような日本食材店がなかった。ただ、バレーボールチームで、「出された物を何でも食べる」という訓練を受けてきた小野沢さんだ。慣れない環境でも見事にたくましく生きてきた。
ある時、小野沢さんにアメリカのプロ・バレーボール・チームへ入団の誘いがあった。オリンピックのメダリストである小野沢さんは、1978年に1シーズンだけ入団してプレーを始めた。
その後、地元高校のバレーボール部のアシスタントコーチを数年引き受けたりした。
彼女は、フェニックスから移って、メサには、1982年から住んでいる。ご主人が2001年に亡くなり、今は一人暮らし。近くに息子さんと3人のお孫さんがいる。
「これからもアリゾナに一生いますから、何か貢献できることがないかと思っています。」と語る小野沢さんには、過去だけでなく未来に向かって生きていくメダリストの人生がある。

 

 

 

アリゾナで活躍する日本人

稲田法子さん

 

1992年、バルセロナのオリンピックに出場したのは、稲田さんが中学2年生の時だった。喘息を治すためには水泳が良いと言われ、小学生の時からプールに入った。そして、ぐんぐんその力をのばし、オリンピック出場を果たしたのだった。当大会では、100m背泳ぎで12位。そして200m背泳ぎで15位の成績だった。
4年後のアトランタ大会には、国内選考で破れて出場ができなかった。そして、その4年後の2000年。シドニー大会に出場した。ここでは、100m背泳ぎで5位入賞に輝いた。
2003年の第10回世界水泳選手権では、50m背泳ぎで28秒62の日本新記録。銅メダルを獲得した。それから2004年のアテネ・オリンピックで100m背泳ぎに準決勝まで行ったが結局11位だった。そして、この大会で引退を決意した。
引退後、日本オリンピック協会から海外コーチ研修として指導者育成のプログラムで海外に行かないかと話があり、それに応募した。そして2008年にアリゾナのフェニックス・スイム・クラブにコーチ学を学びに来た。
そこで井出貴久コーチに初めて会った。2年間、フェニックス大学で英語を勉強しながら、当スイム・クラブでコーチ学を学んでいた。フェニックスでは、いつでも泳げる環境にあったので、再び泳ぎ始めたら、現役時代のような力が戻ってきたのに気づいた。そこでコーチだけでなく、やはりもっと泳ごうと思うようになる。それで2010年に現役に復帰し、日本選手権水泳競技大会に出場して4位。また、ゆめ半島国体で3位という素晴らしい結果を出すことができた。
今は、セントラルスポーツ株式会社と契約し、フェニックスで指導者として活躍する。日本のような社会的な規制がないアメリカにいて、「気持ちよく泳げる」と言う。

 
 
井出貴久さん(左)と稲田法子さん(右)
   
  井出貴久さん

井出さんもやはり子供の時に喘息を持ち、5才の時に水泳を始めた。
中学生の時はバレーボールをしていたが、高校入学後、バレーボールから水泳に切り替えた。そして大学では水泳部に入った。大学卒業後に日産自動車に入社。その後、日産がルノーに買収される時に日産を退職。アメリカに来て英語を勉強をしようと、アリゾナに来たのは、知人からフェニックス・スイム・クラブに招かれたからだった。
2009年に一旦日本に帰国し、その時から博士コースを取り始めた。専攻はスポーツサイエンス。2010年に再び、フェニックスに戻り、Oビザ(スポーツビザ)から永住権を取るに至る。
今は、もう少しで博士号を取れる段階になっている。
井出さんは、日本とアメリカの水泳環境が著しく異なることを痛感している。日本とアメリカでは水泳選手への育成技術、指導理念が根本的に違う。アメリカでは選手の個性を十分に伸ばす環境にある。また、奨学金制度がきちんと整っているため、優秀な選手は安心して訓練に励むことができるようだ。井出さんは、「これからもコーチイングを続けていきたい」と言う。

 
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