チャンドラー市
農業のメッカからハイテクの町へ

広大な農地からハイテク産業の町へ。アリゾナ州チャンドラー市は、劇的な変遷を遂げてきた。この町の出発は、ドクター・チャンドラーの大胆な開発魂からスタートした。今月は、このチャンドラーの街並みを歩いてみよう。

サン・マルコス・ホテル

チャンドラーの概要

 

チャンドラー市は、フェニックス市の郊外の東側にあり、ギルバート町の西側に位置する。2010年国勢調査では、同市の人口は、24万人。10年前の2000年の人口と比較すると33.7%増だった。チャンドラー市が著しい人口増加を示したのは、1980年代だった。

 

ドクター・チャンドラー
(Dr.Chandler)

チャンドラー市の生みの親は、アレクサンダー・ジョン・チャンドラー(Alexander John Chandler)という獣医である。
彼は、カナダのケベック州コーチクックという町で1859年に生まれた。同州モントリール市のマギル大学で獣医学を専攻し、1882年に同大学を卒業した。卒業後、カナダ政府の家畜検査官として働き、まもなくして、アメリカのデトロイトで開業した。

 

獣医を求めたアリゾナ

1887年、ヨーロッパから輸入されてきた牛に病気が発見された。狂牛病と呼ばれる病気で、アメリカ東部では大問題になり始めた。
そのころ、まだ準州だったアリゾナ準州政府では、この病気がアリゾナにまで影響するかもしれないと、深刻な懸念があり、課題となっていた。そこで、準州政府は、対策委員会を作り、アリゾナで飼育されている牛の感染予防と法律規制を強化するために専属獣医を採用することにした。
アリゾナの対策委員の2名、ブルースとバナーが指名されて、ワシントンDCに派遣された。そこで連邦政府の農務省の代表と会い、準州で働ける有能な獣医を推薦してもらうことになった。農務省に着くと、畜産部長であったダニエル・サルモンと面会した。サルモン畜産部長は、デトロイトで開業しているカナダ人の獣医に当たってみるよう勧めた。その獣医がチャンドラーであった。
当時、チャンドラーは、評判の高い開業医であり、また、フェリー・シード社と緊密な関係にあった。この会社は、牛馬の飼料となるアルファルファなどの種子を開発しており、チャンドラーの獣医としての知識が大きな決め手となっていた。
さて、アリゾナ準州のブルース、バーナー両委員は、早速、チャンドラーに会うためデトロイロに向かった。チャンドラーは、初対面ながら、アリゾナ準州からの求人の話に、その場で、快諾の返答をしたのだった。その時のアリゾナ政府からの給料は、月2,000ドル。当時のチャンドラーが稼いでいた収入に比べると、格段の低賃金だった。しかし、まだ20代の彼には、西部開拓の夢があり、躊躇なくデトロイトを去って、アリゾナに引っ越すことになったのだ。
同年1887年8月8日、彼は、準州の州都であったプレスコットに到着した。

 

 

辞職したドクター・チャンドラー

デトロイトからアリゾナ準州専属獣医とした任務についたチャンドラーだったが、2年後の1990年に、彼は辞職をしてしまう。当時のアリゾナが極めて厳しい干ばつに襲われていたことがひとつの辞職を促した因だったようだ。しかし、もう一つの要因は、すでに彼のパートナーと一緒に始めていた農業開発の企画だった。獣医でいるより、何か全く新しい分野で自分の夢を実現しようとしていたのだ。そこでカリフォルニアで灌漑技術を学ぶことにした。

 

 

バーバカモリ・ランチ

カリフォルニアに向かっていた彼だが、その前に立ち寄って見てみようと思った場所があった。それは、アリゾナの南部にある牧場だった。ババコマリ・ランチ(Babacomari Ranch)という広大な牧場がメキシコの少し北にあるシエラビスタという町の北部にある。
実は、この牧場には、長い歴史がある。
16世紀にスペインから探検隊が派遣されてアリゾナにやって来た。そして、アリゾナの南部一帯には、宣教師を始め、数多くのヨーロッパ人が往来をしている。この場所は、ちょうどソノラ砂漠の真ん中をサンペドロ川が縦断し、水の確保が可能だった。
17世紀には、この一帯に牧場を営むスペイン人が現れ、農牧業が定着し始めた。
1829 年には、地元の名士であったエリアス家が、メキシコ政府からババコマリの土地、130,000 エーカーを買い取り、現在のババコマリ・ランチの出発となった。
現在は、28,000エーカーのランチが東西に延び、アリゾナで最大規模の牧場として、操業されている。

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