チャンドラー市
農業のメッカからハイテクの町へ(2)

チャンドラー氏が始めた町。その名の通り、チャンドラー市であり、近年の人口急増でその発展は著しい。その目覚ましい成長の礎を築いいたチャンドラー氏の人生を追い、彼の行動と先見の明に驚く人が多い。今月は、先月に続き、チャンドラーという町の発展史を見てみよう。

 
アリゾナ砂漠で大型農業が可能か

 

ババカモリを訪れたチャンドラー。彼の眼前には、限りないほどの牧場が広がっていた。時は丁度、モンスーンの季節だった。大雨が降った直後で、牧草が青々としていた。そこで、彼が確信したことがあった。それは、どんな乾燥した砂漠でも、そこに灌漑施設を完備すれば、素晴らしい農耕地帯に変身する、ということだった。

 

カリフォルニアからアリゾナへ

チャンドラーは、カリフォルニアで灌漑技術を徹底的に学んで、再びアリゾナに戻ってきた。アリゾナに来た彼は、1891年に80エーカーの土地を購入した。彼が選んだ場所は、ソルトリバーの南側にある今のメサ市の一角だった。ここは、連邦政府所有の土地だったが、農業に適していると見た彼は、連邦政府から買収をすることにした。彼がカリフォルニアで学んだ最新技術を使う時がきたのだ。

 

初期メサ市の基礎工事

チャンドラーが灌漑施設の工事を始めた場所には、14世紀の昔に古代先住民ホホカム族が築いた用水路跡が網の目のように張り巡らされていた。すでに彼らが立ち去って数百年も過ぎていたが、ホホカム族が農業を営んだ同じ場所に、チャンドラーも目をつけたのだ。そこは、ソルト・リバーという川の存在が地の利を得ていたからだ。
チャンドラーは、大型の工事機械を導入し、ホホカム族が遺した用水路の幅を広げ、より効率的な灌漑ネットワークを作り上げた。さらに彼は、メサのダウンタウンにあたる商業区を作り、電力会社まで始めた。いわば、チャンドラーはメサ市発展の親でもあった。

 

 

フェリー・シード社の目論見

デトロイトで結ばれたチャンドラーとフェリー・シード社の緊密な関係は、チャンドラーがアリゾナに移ってきてからも続いた。事実、同社は、アリゾナなど西部の広大な敷地を使って、干ばつにも強いアルファルファの栽培に興味を抱いていた。この新型の種子の生産に成功すれば、同社にとって、収入急増は間違いない。西部は、その意味で大きなチャンスが待つ場であった。

 

 

フェリー・シード社代理人

チャンドラーはフェリー・シード社の代理人として、土地の確保に動き始めた。そして、時代が20世紀にはいると、18,000エーカーもの広大な敷地を買収する計画に出た。この土地は、現在のチャンドラー市の敷地全体に当たる場所である。彼が築き上げた灌漑施設は、十分な水の確保を可能にした。この一帯は、通称チャンドラー・ランチと呼ばれ、その後20年にわたって、新種開発やらフルーツや野菜の栽培などの実験が続けられていた。

 

 

エジプト産の綿花

チャンドラーの大きな功績は、エジプト産綿花の栽培をアリゾナで開始することに成功したことだ。
エジプト産の綿花は、もともと産業革命を果たしたイギリスがフランスとともに、木綿繊維の供給源を求めてエジプトでプランテーションを始めたことから栽培が拡大した。イギリスは、16世紀からインドを植民地化し、東インド会社を通じてインドのプランテーションから原綿を購入していた。ところが、1840年代にインドからの供給量だけでは追いつかなくなり、また、インドからイギリス本国までの運搬時間とコスト増大が問題となってきた。同時にアメリカで良質の綿花が生まれたので、アメリカ南部のプランテーションで黒人奴隷を使って、綿の輸入が始まった。
ところが、1861年にアメリカで南北戦争が起こり、北軍が南部の港を閉鎖。いきおいイギリスへの綿花輸出が激減した。そこで、イギリスは、エジプトに目を向け、エジプトのプランテーションを使って、大量の原綿を輸入しはじめたのだ。
皮肉にもエジプト産の良質な綿花は、アメリカの政情と密接な関係にあったことがわかる。

 

 

アリゾナ産の綿花

綿花は、長い間、アリゾナの砂漠、とりわけ現在のフェニックス周辺で自然に繁殖していた。古代先住民のホホカム族は、短繊維綿を栽培し、自分たちの服装など使っていた。
アリゾナで長繊維綿が栽培され始めたのは、20世紀初頭になってからだ。もちろんチャンドラーが仕掛け人だった。この長繊維綿は、ピマ綿と呼ばれ、南アリゾナで最も収益の上がる農産物となった。

 

 

チャンドラーと綿花

アメリカ農務省の職員、デビッド・フェアチャイルドとチャンドラーが出会ったのは、19世紀が終わろうとしていたころである。フェアチャイルドは、世界各地を周って、農産物の種を集めていた。こうした種がアメリカの土壌で芽を出すかどうか調べるためであった。とりわけアメリカ西部の農業開発に力を入れていた連邦政府は、フェアチャイルドが集めた種が西部の農業に適応するかどうかが関心事だった。ちなみに、彼がアメリカ西部に紹介した農産物は、アボカド、ナツメヤシ、グレープフルーツ、キュウリ、玉ねぎ、種無しブドウ、ヒヨコマメ、そして長繊維綿だった。
1898年、彼はエジプトの旅を終えて、アメリカに帰ってきた。その彼がエジプトから持ち帰ったものは、その長繊維綿の種だった。彼は、この種をチャンドラーに渡したのだ。アリゾナで長繊維綿が育つだろうか。
チャンドラーは、早速、自分の農場でこの種を植えてみた。そして、エジプトの綿花がアリゾナで見事に育つことを確認したのだ。長繊維綿は、綿産業に革命をもたらし、衣類からタイヤまで広範囲の業界で使われるようになっていた。そこで、農場主は、競って綿花の生産に力を入れ、収益をあげようとした。

 

 

戦争による特需

そんな時に、世界は戦争に突入していた。第一次世界対戦の勃発である。1915年、ちょうど100年前のことだ。イギリス軍は、戦車や戦闘機の生産を急いだ。戦車や戦闘機は大型のタイヤを必要とする。そのタイヤ生産には、良質な長繊維綿が必要だった。当時のイギリスは、その植民地であったエジプトのプランテーションで綿花を生産していた。そして、アメリカもそこから綿花を輸入していた。
ところが、戦争で大量の綿花を必要としたイギリスは、エジプトの綿花を独り占めすることに決め、1917年、他国への輸出を禁止してしまった。
これであわてたのは、アメリカのタイヤ産業だった。当時、アメリカは、車産業が急成長していた。タイヤ生産に必要な綿花をどうしても確保する必要に追いやられていた。そこで、タイヤ業界が注目したのが、ピマ綿だった。まさにチャンドラーが始めたアリゾナの綿花が見事なタイミングで供給されていくことになったのだ。さて、タイヤの大手企業、グッドイヤー社は、思い切った決断をした。会社自体がアリゾナの広大な敷地を確保し、ピマ綿の栽培を開始し、綿花の確実な供給をする、ということだった。グッドイヤー社はラジアル・タイヤにピマ綿が最適であると確信していた。
そこで、同社は、チャンドラーと交渉し、チャンドラーから8,000エーカーもの土地をリース契約で確保した。この土地は、現在、チャンドラー市営飛行場の敷地となっている。

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