チャンドラー市
農業のメッカからハイテクの町へ(4)

一人の人間のビジョンが現実となって生まれた町、チャンドラー市。今回は4回目。今月は、かの有名なフランク・ロイド・ライトとの関わりを見てみよう。

サン・マルコス・ホテル

タリアセン・ウェストの一室に展示されている帝国ホテル玄関部分の模型
 
フランク・ロイド・ライトとサン・マルコス

 

1928年、チャンドラーは、世界屈指の建築家、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright) と初めて会った。アリゾナ・ビルトモア・ホテルなど世界の超一流建築を手がけていたライトは、チャンドラーが頼んだサン・マルコス第二弾目のホテルの設計を、即、快諾した。
ライト設計のアリゾナ・ビルトモア・ホテルは、「砂漠に輝く宝石」として、高級リゾートの頂点に立つほど注目された。このような一流建築を手がけた建築家だったが、実は、ライトは、経営苦に悩んでいた。チャンドラーの申し出は、そこに舞ってきた絶好のチャンスだった。

 

フランク・ロイド・ライト

フランクロイド・ライトは、1867年、ウィスコンシン州で牧師の父親と教師の母親の間に生まれた。母親のアナは、すでに息子が将来素晴らしい建物を作り上げると、思っていたらしい。アナは、息子にフレーベル・ブロックという積み木を与え、ライトの自伝によると、幼少時のこのおもちゃが彼の将来の設計技能に大きな影響を与えたという。
そんな両親もライトが14歳の時に離婚。母親と妹の家庭で唯一の男性であったライトに、一家を支えていく責任がのしかかったてきた。
その後、ウィスコンシン・マジソン大学に入ったが、中退してシカゴで職を求めた。彼が中退したのは、1887年だが、それより68年後の1955年に、ライトは、当大学から芸術学部の名誉博士号を受けている。

 

建築技師のスタート

彼がシカゴに着いたころ、そこは、人口急増の真っ只中で、町中が建築ブームとなっていた。そんな環境のお陰で、ライトは、まもなく、製図者の仕事に就くことができた。これが、彼の建築家としての第一歩となった。

 

 

一流建築家との出会い

ライトは、当時シカゴで活躍していた二人の建築家と知り合う。ルイス・サリヴァンとダンクマール・アドラーである。サリヴァンとアドラーは、オフィス高層建築をシカゴで構想し実現させた。1871年に起きたシカゴの大火で多くの市民が住居を失い、大量の建築物が廃墟と消えた。その復興の過程で高層ビル群が出現する。その設計を手掛けたのは、いわゆる「シカゴ派」と呼ばれるサリヴァンとアドラー達だった。その二人が共同事業で立ち上げたサリヴァン&アドラー事務所にライトが採用された。ライトは、そこで7年間勤めたが、生涯サリヴァンを師匠として尊敬していたと、彼の自叙伝で述べている。

 

 

プレイリー・スタイル(Prairie Style)

ライトは、1893年に独立して自らの設計事務所を構えた。そして次の17年間に200件もの建築設計を行った。こうした設計は、プレイリー・スタイルとして知られるようになる。プレイリーとは、草原の意味で、建物の高さと水平線を強調し、部屋と部屋の間を仕切ることなく、一つの空間で結んでいく様式である。

 

 

ライトと日本

ライトは、1913年に訪日し、帝国ホテル新館の設計を進めた。帝国ホテルは、1890年に完成し、いわゆる明治の日本が誇る国を代表する高級ホテルとして開業していた。総支配人の林愛作がライトと旧知であったことから、ライトに新館設計の相談をする。そして、1916年に契約が結ばれた。鉄筋コンクリートを使った巨大なホテルは、後に関東大震災でも倒壊せず、耐震防火を配慮した建物は、ライトの卓越した設計能力を証明した。しかし、完璧主義のライトがもたらした巨額な予算オーバーと工事の大幅な遅れが原因となり、ライトは解雇。総支配人の林も辞任してしまう。結果としてライトは、ホテルの完成を見ずにアメリカに戻ることになる。
こうした帝国ホテル新館も年代を経て老朽化し、1960年代に取り壊し工事となった。しかし、その玄関部分だけは、愛知県の博物館明治村に移築された。そして、現在、この建物は、登録有形文化財に登録されている。
その他、ライト設計の日本の建物は、1924年に竣工された兵庫県の山邑家住宅や1926年の自由学園明日館があり、いずれも国の重要文化財となっている。
また、ライトは、日本文化に大変魅せらたようで、浮世絵の収集家としても知られている。

 

 

ライトとアリゾナ

アリゾナ・ビルトモア・ホテルの設計でアリゾナを訪問したライト。その自然美と広々とした空間、そして温暖な気候にすっかり魅了されたようだ。高齢化していくごとに、冬のウィスコンシンは極めて過酷な生活であることを身にしみて感じていた彼は、アリゾナに彼の冬の家を建てることにした。
こうして、1937年、現在のスコッツデールにタリアセン・ウェストを建て、避寒用自宅兼仕事場とした。このタリアセン・ウェストは、ライト独自の建設哲学から、砂漠と見事な調和を図る建築物として実現した。

 

 

ライトとチャンドラー

そんな建築家の巨匠、ライトにホテルの設計を依頼したチャンドラー氏。チャンドラーに連れられてホテルの建築予定地として彼が選んだ場所に行ったライトは、チャンドラーからホテルの名を初めて聞いた。それは、サン・マルコス・イン・ザ・デザート(San Marcos In the Desert)、つまり「砂漠のサン・マルコス」だった。
ライトは、早速、その場所に小屋を作り、彼の家族と設計チームを呼んで、住むことにした。ライトは、この地を「キャンプ・オカチヤ(Camp Ocatilla)」と、わざとOcotilloのスペルを変え、名付けた。Ocotillo(オコチヨ)とは、アリゾナとメキシコに広がるソノラ砂漠に生息する植物。
ちなみに、サン・マルコス・イン・ザ・デザートの建設予定地は、現在のサウス・マウンテンの南側で、いわゆるアウァツキーと呼ばれる広大な住宅街に位置している。

 

 

大恐慌

1929年に世界は突然、大変化を余儀なくされた。10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。そして、それが一挙に世界的規模で波及し、金融恐慌が起こったのだ。アメリカには、1,000万人以上の失業者が町にあふれ、一万行以上の銀行が破綻となった。

 

 

その後のライトとチャンドラー

大恐慌は、もちろんライトとチャンドラーのビジネス計画にもピリオドをもたらした。新たなホテルの建設などは不可能となってしまった。キャンプ・オカチヤでの企画は、ほとんど日の目を見ることなく、消滅してしまった。消えたプロジェクトの一つに、サン・マルコス・ホテルの改築計画もあった。
ライトは、アリゾナでの仮の家をたたみ、ウィスコンシンに戻った。しかし、1935年に再びアリゾナに自分の教え子達を連れて戻ることに決めると、チャンドラーは、ライト達にラ・ハシエンダというホテルを使わせることにした。二回の冬をこのラ・ハシエンダで過ごしたライトは、様々な設計をしながら、すっかりアリゾナの砂漠に惚れてしまったようだ。こうして、大恐慌で実現を果たせなかったサン・マルコス・イン・ザ・デザートを想像させるような場所を選び、現在のタイアサン・ウェストとして、冬の家を完成させたのだ。

  関連記事:
農業のメッカからハイテクの町へ(1)
農業のメッカからハイテクの町へ(2)
農業のメッカからハイテクの町へ(3)
農業のメッカからハイテクの町へ(5)
農業のメッカからハイテクの町へ(6)