人間の交流が生んだ
フェニックス日本親善庭園(1)

カリフォルニアでもなく、ニューヨークでもない、ここ、アリゾナにある本格的な日本庭園。その存在は、近年急速に市民の間に知られるようになってきた。また、訪問者数も増加の一途をたどっている。
実は、この庭園、今年の11月で開園15年目に入ることになる。正式の名称は、「フェニックス日本親善庭園」だ。池の周囲を巡るように設計されている回遊式日本庭園である。
毎年、夏場の6月から9月の間は休園しているが、10月には、再び一般市民にオープンされる。今月は、この日本庭園を散策してみよう。

 
 

庭園の発案

アリゾナ砂漠に日本庭園を。この誠に意外なアイデアがどのようにして生まれたのだろうか。アリゾナのフェニックスやツーソンの都市には、砂漠植物園があり、大変ユニークな砂漠の植物を数多く見ることができる。しかし、日本人や日系人が少ない州で、その上、強烈に乾燥しているこのアリゾナに日本の庭園を造るということは、尋常なことではない。その当たり前でないことが現実化した。そして、そこには、たくさんの人々の熱い思いが働いていた。

姫路市造園建設業教会が作った見取り図
 

 

姉妹都市交流

フェニックス市は、現在、海外の10都市と姉妹都市交流を行っている。全く環境も言語も文化も異なる都市とそこに住む人々との交流を図っていくことは、高い価値を生み出すことに違いない。フェニックス市と姉妹都市交流をしている日本の都市が、兵庫県の姫路市である。姫路市といえば、あの白鷺城と呼ばれる姫路城が市のシンボルとなっている。
両市の姉妹都市提携が始まったのは、今から40年も前のことだ。1976年11月3日に提携が署名されてスタートした。1976年といえば、アメリカ合衆国建国200周年に当たる年だ。その歴史的な意義を込めて、国際親善都市連盟が両市を仲介して現実化した。ちなみにその日、11月3日は、日本では、「文化の日」であり、文化交流の意味も含まれている。
その後、1980年には、青少年交流事業の一環で、次代の国際交流の担い手を育てる目的として、フェニックスに10名の姫路市の高校生が派遣された。また、翌年からは、フェニックスの高校生が姫路市に派遣されてくるようになった。これまで、両市で計500名に及ぶ高校生が交流をしてきている。

 
 
日本庭園建設の提案

こうして始まった姉妹都市交流。人間と人間が交流することで、相互の信頼が育ち、それが一つの形として現実のものとなる。
それは、1987年のことだった。姫路市の親善交流団がフェニックスを訪れた。この時、交流団側からフェニックス市に一つの提案が出された。それは、フェニックス市内に本格的な日本庭園を建設したらどうだろうか、ということだった。そして、その翌年、姫路市の戸川市長(当時)がフェニックスを訪問。市長は、前年に提案した日本庭園の詳細な設計図をフェニックス市に提出した。戸谷市長を始め、市の代表者の心の中には、この庭園を通して、フェニックスの市民に日本文化への理解を深めてもらい、姫路市との相互理解に寄与できるようにとの熱い思いがあった。また、日本庭園がフェニックスの観光名所になれるよう全力で協力しようとの決意も表現されていた。

フェニックス市も大歓迎

それを受けて、フェニックス市では、住民投票を行い、市の文化公債発行をし、その内、210万ドルを庭園建設に割り当てることにした。もちろん、この住民投票は可決された。
1989年、フェニックス市の代表団が姫路市を訪れ、姫路の日本庭園を視察した。一方、姫路市では、造園建設業協会が設立され、フェニックスの日本庭園の設計、そして詳細な指導応援を提供し始めた。1990年、姫路市は、庭園設計士をフェニックスに派遣。翌年には、灯篭、屋根瓦、鯱の彫刻などをフェニックスに寄贈した。一方、フェニックス側も日本親善庭園委員会を結成し、本格的な建設開始の準備が進み始めた。
そして、いよいよ1992年にフェニックス日本親善庭園の模型が完成。同年4月には、マーガレット・ハンス公園がオープンされ、この公園の一部が日本親善庭園の建設予定地となった。また、100万ドルを目標に、一般市民からの寄付募金運動がスタートした。1995年には、姫路市から庭園建設に対する寄付の授与もしている。
翌年、1996年11月に日本親善庭園の敷地内に茶室が完成した(下写真)。これが、庭園の最初の建物となる。そして、1998年に、いよいよ工事がスタート。
そして、2002年11月に待望の庭園オープンとなる。振り返れば、姫路市がフェニックス市に庭園の提案をした日から15年の歳月が経過していた。そして、今年、2016年の11月で、開園15年目を迎えるということになる。